2007/12/10

16 「わかったか?」と聞くときの心構え 

 我々は「わかる」とか「わからない」という言葉をよく使うが、本当は、「わかったと思う」「わからないと思う」といった方が正しいだろう。

 「わかる」「わからない」という言葉は、説明されたり教えられたりしたときの、その内容に対する理解の状態の自覚的表現だからである。教えられた内容を、すでに自分の脳―神経系の中にもっている言葉であったり、行動感覚であったりするものを手がかりとしてとらえた、その人の自覚の状態を表現したものなのである。
 したがって、「わかったか?」と聞いた側の内容と、「わかった」と答えた側の内容とは、かならずしも一致してはいない。いや、むしろ一致していない方が多いのではないか。説明したり教えたりする側がイメージしている内容や身体感覚と、説明される側、教えられる側が持っているイメージや身体感覚は同じではない。それらは、経験が作り出すものだからである。経験が違えば、作られるイメージや身体感覚も当然異なってくる。

 言葉もまた同じである。「高い山」とか「冬は寒い」といった簡単な言葉でさえ、平原に住んでいる者と山岳地帯に住んでいる者、温かい地域の者と寒い地域の者では、同じ意味を持たない。言葉は、経験と並行して、あるいは経験を整理する中で使われてくるからである。したがって、もっと複雑な内容の事柄、経験を土台にしての理解が必要な事柄を理解するのは、実に大変なことである。
 言葉や図で説明されたことを、それを説明した者がイメージしているのと同じ内容や身体感覚を持つことができるには、説明した者と殆ど同等かそれ以上の行動経験をし、言葉での表現についても同等かそれ以上の経験をしてきているということが必要である。その経験を手がかりとして始めて、推測できるのである。
 
 つまり、説明をして「わかったか?」と聞くときには、相手の経験を見つつ、聞かなければならない。説明の内容についての経験が殆どない場合の「わかったか?」と聞くのは、殆ど意味をなさない。「何についてどうわかったと思っているのか」を確かめる、という姿勢で対応する心構えが必要だ。

15 「わかる」ということ

 人の話を聞いて「わかった」というのは、「わかったと思った」というだけのことが多い。

 話がわかるというのは、話で使われている言葉がわかるということではない。もちろん言葉の意味がわからなければ、話はわからないのであるが、話の内容が本当にわかるということのためには、もっと多くのものを必要とする。 話の内容というのは、世の中の事実であったり、自然の事実であったりする。また、話をしている人の経験であったりする。話をする人は、その事実を見たり経験したりしたことから感じたこと考えたことを、自分の論理でまた自分の言葉で語っている。話を聞くというのは、その結果を受け取っているということである。

 話が本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じまた考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。聞き手が話し手と同様に感じたり考えたりすることができるには、話し手と同等もしくはそれに近い行動経験や論理を組み立てた経験がなければならない。なぜならば、感じることや論理を組み立てることは、そうしたことを経験することによって,脳の行動回路に蓄積されていく能力だからである。

 したがって、教師が、自分より経験が少なく論理力思考力が未熟な生徒や学生に、感じたり考えたりする材料や経験する場をつくらず、学習させる内容を講義による説明だけで済ませるということは、行動形成の意味からはほとんど意味がない。

2007/11/30

14 できるとわかる

 「やり方はわかってるんだけど、できない」というようなことがある。

 例えば、自転車に乗る練習、逆上がりの練習、その他何か新しいことを始めたときに、多くの人が経験していることだろう。教えてくれるものは、いろいろアドバイスをしてくれる。しかし、その通りにやろうとしても、なかなかできない。何度も言われると、思わず「わかってるってば!」などと叫んでしまう。しかし、それは「本当にわかっている」のではない。正確に言うと、「わかっていると思っている」「言葉の意味としてわかっている」ということである。行動するときのポイント、考える項目としてわかっているだけであって、行動を成立させるための感覚としてわかっているということではない。

 「行動できる」ということは、身体を使った行動なら、「脳⇔身体(行動表現)」の連携ができているということである。その連携ができたとき、本当にわかったというのだ。できたときの「あっ、この感じ!」と初めてわかるその行動感覚だ。その行動感覚をしっかり身につけたとき、そしてそれを自覚したとき、はじめて本当にわかったというのである。

 数学や科学のような論理的行動の場合で言うなら、教えられた論理を使って自分ひとりの力で対象をとらえ整理することができるということである。教えられた通りに論理をたどるというのではなく、自分ひとりでその論理を使って様々な対象をとらえるという行動をして、それができるようになったときが、本当にわかったときである。

 「わかる」というのは、できたときの行動感覚の自覚なのである。つまり、行動することによってしか本当にわかるようにはならない。「わかるとできる」ではなく「できるとわかる」のである。
 大事なのは、言葉であれこれと説明して、わかった気にさせるようにすることではない。その人が行動して、自分でその行動感覚をつかめるようにするために、行動の仕方をアドバイスすることが大事だと言うことである。

2007/09/11

13 試行錯誤の脳行動学的意味 

●二つの事例
≪ 事例1 ≫
 K大学医学部看護学科、卒業直前、これから看護の現場に出て行く学生たちに、「採血」の予行演習をさせた。2年生のときにしっかりと教えたはずだった。ところが、針のサイズも覚えていないし、正しい持ち方もできない。自信を持って採血できるという学生が、殆どいない。教師たちは愕然とし、残り少なくなった時間の中で、特訓したという。

≪ 事例2 ≫
 一方、T看護短期大学の採血の学習。じっくり時間をかけて学生自身で正しい針の選択と、正しい持ち方を見いださせる。いろいろな太さを針を見る。腕のシミュレータを使って血管の太さを調べて比較してみる。針を紙に刺してみて、針の太さによるあいた穴の大きさの違いを見る。グリセリンを加えて血液の粘度に近くした液をつくり、いろいろな太さの針で吸い込ませ、吸い込みやすさを比較する。そして、腕の動脈からの採血にふさわしい針を選ばせる。針の持ち方についての学習も同様に、自分でいろいろ調べさせ、試行錯誤させ、しっかり固定できる持ち方のポイントを発見させる。教師は答えを教えない。調べ方のアドバイスをしたり、モデル行動をして観察の対象になったりするだけだ。
 他校のように、針のサイズ・持ち方を教師が説明して教え、それを練習させれば、半分以下の時間で学習が終る。なぜ時間をかけて針の選び方,持ち方を探究させるのか。担当していた教授は言う。教師が説明して教えていたときは、その時間内の学習では出来るようになっていても、時間がたつと学生は針のサイズや持ち方を忘れてしまうことが多かった。ところが、この学習方式にしてからは、忘れなくなった。日頃は意識していなくても、その状況に出会えば対象を測定し判断して、自分で正しい針を選択し、正しい持ち方で採血することができるようになったというのである。

●脳の回路を使うほど、そして関連するものが多いほど、確かな記憶となる
 針のサイズや、注射器の持ち方(手の形,指の角度)を教科書で見たり、教師に教えてもらって覚えるというのは、「伝達―受容」型の意味記憶。この意味記憶の場合は、他人の判断の結果をただ受け取るだけで、脳の活動は単純であるから、脳の回路の使われ方が非常に少ない。したがって記憶の量も少ない。
 自分が行動したことを覚えるという記憶のしかたを、経験記憶という。脳は、行動したことは全部経験記憶として蓄積していく。成功したことはもちろん、失敗したことも全て記憶していく。見るだけ聞くだけの場合の脳の使い方(意味記憶)に比べると、自分で調べ、試行錯誤させる学習のさせ方は、そのことに関する脳の回路への刺激の量が格段に多い。さまざまな行動の対象の測定、判断、針の選択や正しい針の持ち方や操作を見出すための試行錯誤、そのときどきで使った脳の回路、それらが複雑に関連している。単純な記憶は、忘れやすいが、複雑に関連した経験記憶は忘れにくい。回路の連関として記憶が形成されるからである。
 加えて、自分で法則をみつけたものは忘れにくい、ということがある。そのときの感動が加わって、強い刺激として脳の回路に残っているからである。感情が絡むと強い記憶となる。感情を司る扁桃体が、海馬に必要な情報として記憶するよう指令を出すと考えられている。

●学習時間と学習の効果
 T看護短期大学のような学習は、一般的には、時間がかかるというので敬遠されている。しかし、教えても覚えていない教育にかける時間の方が無駄なのではないか。学習にかける時間は、単に所要時間だけを問題にするのではなく、学習者の脳の回路をしっかりつくるという観点から、考え直すべきではないか。

12 「木と相談してやりなはれ」

 昭和9年(1924)から50年にわたる法隆寺昭和の大修理の棟梁であった名工、日本一の宮大工と称された西岡常一さんは、
  「人に聞いたことはすぐ忘れる。大事なことは木と相談してやりなはれ」
と言って弟子を育ててきたという。木の使い場所の条件を調べ、木の状態を観察し、自分自身で判断してやれということである。人の判断の結果を聞いてもそれはすぐ忘れる、そして次の自分の判断材料とはならないということである。試行錯誤するということが、学習上重要な意味を持つということである。
 このことは、脳行動学でも重要なポイントである。自覚的・探究的に行動してきた人間の脳のネットワークは、情報を分類整理しながら、関連付けながらつくられていく。それらの記憶を条件に応じて組合せることによって、応用も利くし、新しいことも生み出せるのである。

 それにしても、その道の達人は、人間の行動を見ることにおいても達人なのだと感心させられる。

11 「頭を良くする」ということはどういうことか

 「頭を良くする」ということは、脳の「分類-組み合わせ」の能力をみがくということである。脳は、行動経験したことを記憶していくというのがその基本のシステムである。そして、その記憶を分類し関係づけるということをしている。経験の記憶は、経験しただけある。それがどんどん分類整理されつながっていけば、脳の働きは爆発的によくなっていくと、脳学者は言う。つまり、「頭を良くする」というのは、脳に「分類-組み合わせ」型の働きをさせるようにするということである。
 しかし、これには条件がある。それは、脳本来の働き方をさまたげない、もっといえばそれを助ける行動のしかた・学習のしかたをするということである。「分類-組み合わせ」型の行動をすればもっと効果的だということである。学習する内容を自身で調べ、視点を立てて分類し、整理するというような学習をするということである。教科書を暗記したり、教師の話をただおとなしく聞いたり、ということではないということである。

10 脳は、単純記憶が苦手

 「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」とか「イヤーロッパ(1868) さん、明治だね」などと、いろいろな意味をつけて年号などを覚える工夫をした経験を誰しも持っているだろう。脳は、単純記憶は苦手で、何の意味もない数や文字の羅列を覚えるのは苦手なのである。
 脳の基本的な働き方は、分類してそれを組み合わせるという働き方である。人間は、ごく幼いときは単純記憶が得意であるというが、それは脳学者に言わせれば、得意というよりそういう記憶のしかたしかできないからだという。分類がまだできないのである。成長するにしたがって、脳の働き方はどんどん「分類-組み合わせ」型に移行していく。
 脳には、得意なことと不得意なことがある、ということである。教育者は、こういう脳の働きの特質を考えて、教育を行われなければならない。学習者も、学習のしかたを工夫する必要がある。

2007/08/03

9 グループ学習の脳行動学的意味

 脳の学習の原則は、「行動をしたことを学習する」ということ。 行動したときに起きた「脳の神経細胞間の刺激の連絡関係の状態」が残ったものが記憶である。その記憶が蓄積され、関連づけられ、組み合わせられていくことによって、人間は様々なことが理解できるようになるし、新しい行動を生み出していくことができる。そうした脳の学習のしかたと働き方に対して、グループ学習はどのような意味をもっているのだろうか。

●主体的活動が主体的姿勢を育てる
 グループ学習の一斉学習との最も大きな違いは、学習活動を学習者が主体的に進めるということである。主体的な行動を積み重ねることによって、主体的な行動姿勢が育っていく。活動がうまくいった場合とそうでない場合とでは違いがあるが、それでも一斉学習に比較すれば格段の差である。
 一斉学習ではその展開の条件から、教師が主導することが多く受動的な学習活動が多くなる。受動的な行動を続ければ、脳は受動的な行動のしかたを学び続けることになる。小学校から大学まで講義中心の一斉学習方式で育てられてきた日本人が、主体的な行動力が不足している理由はここにある。

●脳の働き方が多様である 
 脳は、他への働きかけが多いほど活性化し、複雑な働き方をするほど発達する。
 多人数の一斉学習では、多くの場合20%程度(30~40人クラスなら6~8人)の反応で授業が進められていく。残りの学習者が主体的に活動せず、教師の話をただ聞いているだけでも授業は進んでいき、その場合の学習者の脳の働き方は非常に単調でしかも少ない。
 一方、グループ学習は生徒相互間の共同関係を意図した学習であるから、1つの課題に生徒たち自身が共同して取り組むという形がとられる。調査や実験をして,その結果をまとめ、表現する、といった多様で複雑な学習活動になり、グループが少人数であるほど各自が行う行動の種類と機会とが多くなる。

●共同することで脳が育つ-分類し総合する力,人間関係力
 一つの課題を共同して行うには、分担,総合,協力といった活動が必要になる。分担し総合する過程では、全体をとらえる行動、要素に分ける行動、それらの関係を整理する行動などが行われる。これらはものごとを構造的に見るという行動であるが、これにより、脳はものごとを構造的にとらえることを経験する。
 また、具体的に行動実施するためには、コミュニケーションが欠かせない。それは言葉だけのコミュニケーションではなく、自分や相手の行動とともにあり、行動を成立させるためのコミュニケーション行動である。どのように共同するか、分担するか。それぞれが調べたことをどうまとめるか。自分の考えを相手にわかりやすく伝える、相手の話を聞き(聞き出し)考えていることを読み取る。意見が異なる場合いはそれを調整することも必要になる。互いに仲間の発言や行動を観察し、意図するところを読み取り、協力の仕方やそのタイミングを計らなければならない。
 そうした行動の中で学習者は、試行錯誤しながら全体の中での個のありかた、個の総合としての全体のあり方を経験していくことになる。そして、経験したことを、脳は学習する。多人数での一斉学習の場合でもこうした行動がないわけではないが、数人が発言してあとは多数決で決めたり、誰かが代表で実験や発表をし、残りはそれを観察するというような形になったりして、学習者それぞれの行動の量と質はグループ学習に遠く及ばない。

●教え合うことで、理解が深まる― 記憶の再構成,問題意識に位置づいた学習活動 
 グループ学習における「教え合う」という行動が、内容の理解を互いに深めあうという効果があるとして、今注目されている。(「教え合い」を特に意図したグループ学習を「協調学習」という名で呼んでいる。)
「教える」ということは、相手の疑問に応じて、自分のとらえていることを伝え、理解させることである。そのためには、相手がどう考えているのか、何がわからないのか、をつかまなくてはならない。その上で自分がとらえていることや理解の土台になっていることを整理し、相手が理解できるやさしい言葉と論理で説明しなくてはならない。相手の状況によって事例を示したり、具体物を使ったりして説明しなくてはならない。(その過程は、より本質的な理解と具体的なとらえ方が必要であることや、しばしば自分もよくわかっていないということを自覚する場ともなる。)
 説明を受ける側は、教えてもらった内容と自分がとらえている内容とを比較し、抜けている部分違っている部分を修正していく。この過程で、教える側教えられる側、双方の脳の記憶は何度も繰り返し引き出され、関係付けられ、再構成される。それだけ脳の神経回路が働くということである。脳の神経回路は働くほどその働きがアップする。反応しやすくなる。
 また、この「教え合う」という行動は、教師から一方的に与えられるものではなく、自分たちの疑問や問題意識にあわせて行われるということが、脳が働きやすい条件にもなっている。自分たちが行動した結果(実験結果や、調べたこと)や、目の前の具体的な事実や教材を材料として行われるため、記憶情報がネットワーク化(関連づけ)されやすいのである。忘れにくい、確かな記憶になるということである。

●チャレンジする力を育てる
 難しい課題に挑戦できないのはほとんどの場合、失敗に対する恐れのためである。しかし、1人ではできないそうもない気が重くなるようなことも、3人4人と仲間がいれば何とかなるかもと第1歩が踏み出せる。がんばればやれそうだと感じたとき、脳は最も活性化する。グループそのものに脳を活性化する条件が備わっていると言ってもよいかもしれない。
 グループで取り組む場合、失敗しても仲間で痛みを分け合うことができる。もう1回やってみようと励まし合う。なかなかアイディアが出なくて苦しいとき、1人がへこたれても、別の誰かが頑張ってやる。その頑張りを見て自分もやるぞという気になる。チャレンジするエネルギーが出てくる。
 この学習過程がよい、とグループ学習を体験した学習者たちは言う。苦労しても、教えられるのではなく、自分たちの力で掴み取っていくというところに充実感があり、だんだん面白くなっていく。チャレンジすることの面白さ、楽しさをつかめば、脳はそのことを避けることはしなくなる。脳は、本質的に自分にとって好ましい方向に働こうとする。それは生存のための本能だからである。
 チャレンジすることで、チャレンジ精神は育っていく。グループでの課題挑戦は、個々のチャレンジ精神をも高めることになっていく。

●経験の共有,感情の共有
 グループ学習では、学習者たちが同じ経験を共有することになる。その同じ経験を土台に考えることになるので、互いの意図するところが理解しやすい。
 また、単なる経験だけではなく、それに伴う感情を共有する。感情は行動したときに起こる脳の働きの1つである。同じような経験をしていないと、言葉でいくら説明しても本当には理解できない。「グループ学習は楽しい」と学習者は言う。集まってわいわいやるから楽しいという意味ではない。苦労しても、つらい学習であっても、いや、だからこそ楽しいというのである。学習活動を進めていくための苦労や、失敗による挫折感、そして成功の喜び。失敗を克服することができれば、失敗せずにできたときより嬉しい。そのときの苦労や喜びを分かり合える、語り合える仲間がいるということが大きな喜びとなる。

●グループ学習を進めていく力は、グループ学習の中で育てる 
 グループ学習の効果は大変大きい。学習内容を理解するという面は言うまでもなく、社会の中で行動していくための力 (主体的行動力、コミュニケーション力,人間関係力,チャレンジ精神etc.)を磨くという意味からは、まさに不可欠な学習活動のしかたといえよう。
 しかし、グループ学習は最初からなかなかうまくはできない。グループにしさえすればグループ活動が成立する、というわけではないのである。なかなかうまくできないから講義式でやる、その方が早く進む、という指導者がいるが、それは間違いである。進んでいるのは指導者であって学習者ではない。学習者をいかに行動させ、行動のしかたをその脳の中に成立させていくかということが、学習の目標にならなければならない。
 グループ活動がうまくできないからこそ、グループ学習をさせなくてはならない。グループ活動は、グループ学習の中でその行動のしかたを練習し修正していくことによってしか、できるようにならない。目標行動の提示の仕方や教材の作り方の工夫、アドバイスやヒントの出し方、そこに指導者の力が発揮されなくてはならない。

8 長く見る,じっと見る

 NHK総合TVに「課外授業ようこそ先輩」という番組がある。各地の小学校の6年生1クラスに、いろいろな分野で活躍しているその小学校を卒業した先輩が授業をする様子を描くドキュメンタリー番組である。06年4月、その日の先輩はアートディレクターの長友啓典さん。アートディレクターとはひと言で言うなら広告制作の現場監督。伊集院静の小説の挿絵や装丁、各種広告制作で活躍している人である。後輩は大阪市常盤小学校の6年生。
 長友さんの子どもたちへ課題は、長友さんが準備してきた「TOKIWA」のロゴ入り用紙を使ってのポスター制作。常盤小学校と常盤小学校に通っている自分たち、そして常盤小学校がある町、それをアピールするポスターの制作である。この課題の中で、長友さんが子どもたちの心に、表現したいことを沸き上がらさせていくプロセスをカメラが追う。

 長友さんは授業開始後すぐさま子どもたちを通学路に連れ出す。そして、どこか気になるところを1か所選んで10分間見続けるようにと言う。ぼんやり見るのではなくじっと見る。そのうち心に浮かんできたことがあったら、それを文字に書く。絵は描かない。書いていいのは文字だけである。
子どもたちは始め戸惑っている。何を見たらよいのかわからない。どう見たらよいのかわからない。とにかくじっと見ているように言われ、見続ける。しかしそのうち、子どもたちの心にはいろいろな思いがわきあがってくる。見えてくるものがある。

「何を見ているの?」「どうしてここを選んだの?」 長友さんはその様子を観察しながら子どもたちに質問する。
「道路にひびが入っている。古い道なんだなーって思った。」
「この細い道の向うに私の家がある。だから大好きなの。」
「このお店(床屋)ずいぶん長いことあるなあ。くるくる回る三色の看板、古いけどおしゃれな感じ。」
「ここに来るといつもおいしい(パンの)匂いがするんだ」
「緑が多くて静かだから、大好きな道。でも今は、工事中で通れないので悔しい。」
 毎日一瞬で通り過ぎていく場所を、長く見る、じっと見ることで、他との違いを発見し、自分の思いに気づき、以前の経験が引き出され、そして新たな発見をする。教室に戻った子どもたちは、メモをもとにわが通学路をポスターとして描き始める。
「その絵においしい匂いが表現できない?」「通れなくて悔しいという気持ちを表してごらん」長友さんの言葉に刺激され、子どもたちはそれぞれ自分の心にわきあがった思いを表現していく。街角の上空に浮かんだクロワッサン、緑の小道の入口に立てられた「工事中立入禁止」の看板、光輝く町へと続く細い道、画面3分の1もの大きさで鮮やかに描かれた理髪店の3色ポール・・・・・・。 「絵って自分の気持ちを表現するものなんだね。今まで絵はきらいだったけど、好きになった。」しみじみと子どもが感想を述べる。

 じっと見る。同じ「見る」でも、「ちらっと見る」ということと、「長く集中して見る」ということでは、脳にとっての刺激の質が違う。強い刺激とも違う、長い刺激。脳学者の茂木健一郎氏は「脳は忙しいと考えられない」と言う。脳の中のネットワークに信号が伝わりいろいろ活動するには時間が必要なのだそうだ。同じものを長く見るというのは、その刺激を材料として考える時間を十分に脳に与える、ということなのであろう。
 そして、見たことをすぐに絵に描かないで、言葉でメモするということの意味。絵を描くことと、言葉で表現するということとは、脳としての活動のしかたが違う。見たことをすぐ絵に描くと、単なる写生になってしまうことが多い。脳の働きが、目からの情報と手を動かし絵を描く行動を関係づけることに向かうからである。しかし、見たことを言葉でメモをすると、それによって感情やイメージが大きく深く膨らむ。われわれは生活の中で、言葉を使って考えや感情を整理してきているからである。

 長い刺激は思考を深める。しかし「ちらっ」という見方では脳が働かないかというと、そうではない。ちらっと見るという刺激で働く働き方も、脳にはある。また、1ヵ所だけをじっと見ていたのでは見えない、大きな広がりをざっと見ているからこそ見える、比較するから見えるということもある。毎日自転車で行く通勤路。1ヵ所1ヵ所は一瞬で通り過ぎていくが、その積み重ねで見えてくるものがある。雑草の種類と分布、花の開花と温度や日照の関係、道行く中学生高校生の歩き方や服装に見えるそれぞれの学校の指導力・・・、まだまだいくらでもある。

 脳は、刺激の与え方でいろいろな活動のしかたをするということだ。 刺激の与え方と脳の働き方,働かせ方。そういう視点から学習のしかた(させ方)、行動のしかた(させ方)を見直してみるということが必要ではないか。

2007/05/16

7 20%の授業

■50年前の授業調査

 昭和25年、国立教育研究所が全国小中学校教育課程調査の一環として授業研究を行った。1時間の授業における教師の活動、生徒の活動を克明に観察し記録をとった。教師がどういう教材を提示し、どういう説明をし、黒板には何を書き、どういう質問をしたか。どういう行動を指示したか。生徒は誰々が手を上げて、そのうち何人がどんなことを言ったか。その答えを教師はどういうふうに整理をしたか。また、教師の指示に対して生徒はどういう行動をとり、教師はそれに対してどう指導したか。そのプロセスをずっと分析していって、学習目標の立てかたや授業の展開のしかた等における問題点を明らかにしていく、という研究をしたのである。

 そうしたことを3~4年続けて、その中でわかってきたことがあった。全国のどの地域の、どのクラスにおいても、50数人の中で観察記録の表に出てくるのは、いつも10人程、つまり20%の生徒に過ぎないということだった。その10人の生徒は先生といろいろコミュニケーションをして反応がわかるが、あとの40人はわからない。
 そこで、今度は残る40人が授業中どうしていたかを聞き取り調査をしたところ、「わかりきったことだから手を上げなかった」という生徒もいないわけではなかったが、そういうのはそう沢山はいない。「先生、何言ってんのかな」と思っているうちにA君が答えてしまった。どういうことだろうと考えているうちに、Bさんが何か言った。「それでいいのかな」と迷っているうちに次へ進んでしまった、というような生徒が相当いる。また、先生が言ったことがわからなくて考えているうちに、そのことが展開してさらに難しくなった。質問したいと思っていたが、そのタイミングを迷っているうちに先生の話はさらに次へ進んでしまったという生徒も少なくない。あれよあれよという間に45分間がすぎてしまった、そういう状態だったというのだ。

 つまり、残りの40人、80%の生徒たちには、学習は成立していなかった。授業の45分間は、生徒たちの脳を働かせるための場になっていなかったということである。それから50年経った今、そうした状況はどれほど解決されているのだろうか。

■最近の授業状況

 最近、小,中,高の18人の教師による計23授業を見る機会があった。公立が大半であるが、若干私立も含まれている。科目はいずれも理科。いずれも積極的に取り組んでいるという教師たちの授業である。昨今問題になっている子どもたちの理科離れ・理科嫌い解決の道を探るという意味からも、深い関心を持って授業を観察した。
 1クラスの人数は22~39人、50年前の4割~6割とかなり少なくなっている。設備や教材も50年前とは大きく変わった。どの教室でもTVモニタや投影画像の見られるスクリーン、コンピュータが設置されており、TV放送、コンピュータを活用したデジタル教材、インターネットが活用できるようになっていた。そうした環境の中で展開された授業はどうであったか。

 23授業のうちの4つの個別授業、5つの実験を中心とした授業を別として、14が一斉授業であった。授業展開の仕方は一斉授業の場合、どれも基本的には50年前と変わっていない。一言で言うなら教師主体の授業。教師が教科書や資料の内容を解説し、生徒がそれを聞く。教師がときどき生徒に質問し、理解度を確かめる。内容の区切り区切りで、何かわからないことはないかと生徒から質問を求める、といったふうである。そのうちの6授業は生徒個々になんらかのワークをさせたが、残りの7つの授業はなかった。ワークを行った6つの授業のうち、そのワークの結果を基にして展開されたものは3つであって、あとの3つは授業展開の途中で練習問題的にごく短時間行われたにすぎなかった。また、個々のワークの内容は、展開のための材料とされることが多く、生徒の疑問について個別に指導がなされたのは1授業にすぎなかった。
 教師と生徒のコミュニケーションが活発に行われていた授業もあったが、よく調べてみると発言したり質問したりしている生徒の数が多いわけではない。同じ生徒が何回も発言していたり、教師が同じ生徒(確実に反応が返ってくる生徒)を何度も指名したりしているという例が多かった。整理すると、それぞれの授業で反応(内容に即したものに限定)した子どもは、各クラス2~6,7人。割合にすると10~20%。これを見た限りでは、50年後の今日でも、生徒ひとりひとり個別に学習が成立していると言うにはほど遠い状況である。( 私が親として12年の間に授業参観してきた40余の授業でも、この状況はほとんど同じようなものだった。)

■脳を働かせる授業へ

 反応数の少なさ以外にも問題があった。一斉授業における生徒たちの主たる学習行動は、教師の話を聞くという受身の行動であるということだ。受身の行動というのは、脳を積極的に働かせない状況を作る。人間の脳は、働かせなくてもよい状態にしておくとすぐ休んでしまう。授業中の居眠りというのはそのひとつの形である。今回観察した中でも、内容が難しくなってきた中学校以上の授業では、何人もの居眠りをしている生徒が見られた。いずれも一斉授業のクラスで、最高は39人中11人であった。
 また、教えられた結果を覚えるという行動では、脳を積極的に働かせないばかりか、21世紀を生きる人間としての必要な能力を身につけられない。自分の未来を切り開かなければならない21世紀の人間としての能力は、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案し、実行できる、そうした力でなければならない。教師の話を聞くというのが中心の授業では、そうした力は育てられない。脳の学習メカニズムは、経験したことを学習するというものだからである。つまり、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案する、そして実施して修正する、そうした過程を脳に経験させるように授業を設計しなおす必要があるということである。

 「結果を教える教育」から「自分の頭で考える学習」に切り替えて、学力のみならず国際競争力も世界のトップに押し上げたフィンランドの学校教育改革が、そのことを証明しているのではないか。

2007/05/11

6 失敗から学ぶ力を育てる

●なぜチャレンジ精神や創造性が育たないのか
 日本人は、決められたことをきちんとやるのは得意だが、新しいものを創造するのは苦手だといわれる。また、堅実だがチャレンジ精神に乏しいとも言われる。創造する力とチャレンジ精神、転換期にある日本の社会の中で求められているこの二つの能力、日本ではなぜ育ちにくいのか。
 創造する力やチャレンジ精神を持っている人間とそうでない人間とが、生まれながらに決まっているわけではない。創造する力も、チャレンジ精神も、どちらも脳の回路のなせるわざである。赤ん坊から子ども、子どもから大人へと成長する中で、脳を働かせ行動する、その過程で育ってくるものなのである。それが育っていないということは、創造する力を育てるための、そしてチャレンジ精神を育てるための脳の働かせ方が不足しているということ、脳を働かせる環境を作ってきていないということになる。

●失敗は、チャレンジ精神や創造力を生み出すみなもと
 ノーベル化学賞をとった白川秀樹さん、田中耕一さん、賞の対象となった研究のきっかけになったのは、共に研究の失敗からだった。まさに「失敗は成功の母」だったのであるが、白川さんはそのことについて、「ノーベル賞をいただく研究のきっかけになった失敗実験を、よく観察していなかったならば、単なる失敗として葬り去られただろう」と語っている。失敗を再挑戦のスタートと感じ取る心、失敗を観察し分析し、そこから新たなものを生み出す力を育てること、それが重要だということである。
 新しい試みに失敗はつきものである。しかし、失敗は挫折ではない。その失敗の中には、さまざまなデータが満ち溢れている。失敗を失敗のままに終わらせず、それを観察し分析し、つぎへの試みの手がかりを得る。そうした失敗から学び取る力、失敗を材料とし新たな工夫をする力を持つことが、挑戦するエネルギーを生み、その積み重ねが創造力になっていくと言えるだろう。

●「失敗させない教育」が育ててしまったもの
 「失敗は成功の母」という格言は、中国では「失敗是成功之母」、英語では「Failure teaches success」という言い方になっているが、失敗が やがて成功につながるという考え方は多くの国に共通する考えだと言えよう。
 しかし、この格言をどれだけの日本人が実感として受け止めているだろうか。むしろ多くの日本人が失敗から得たものは、挫折感、劣等感だろう。失敗することを恐れ、その失敗に対する他からの評価を恐れる。そのため、新しい試みに挑戦できない、難しいことに挑戦できない、人と違うことができない。そこには、日本の教育のあり方が大いに影響しているように思われる。 
 日本の教育は基本的に「失敗をさせない教育」である。正しい知識や、技術を教える教育である。正しい(その時点での)考え方、やり方を教えてそのとおりやらせる。その結果を試験や実技テストで確認し、評価するというものである。多くの場合、そこで終わる。教えられたとおりの結果が出せなかった、つまり失敗した後は、すべて生徒の責任となる。学習の場において、なぜ失敗したのか、自分の考え方や行動のしかたのどこに問題があったのかを分析し再挑戦する、といったことはまずない。
 そうした教育からは、「失敗=悪い評価」という考え方が育ってしまう。 だから、失敗を招くようなことはできるだけ避ける。結果がわからないようなことには、チャレンジしない。余計な疑問は持たず、横道にそれたり、自分で試行錯誤したりせず、ひたすら教えられたとおりのことを覚え、間違わずにやることに専念する。そして、それが脳の習慣的な働き方になっていく。

●必要なのは、「失敗から学ぶ過程」を経験させること
 「失敗から学ぶ力」、そしてそれを土台とした創造力やチャレンジ精神をどう育てるか。一般に多く行われているのは、白川さんや田中さんのような失敗から学び成功した人の体験談を聞かせるということである。そのことがいかに大切かを話し、「がんばれ」と励ますことである。 しかし、それで実現するのは、生徒に「がんばろうと思わせる」だけである。「思う」ということは「できる」ということとはちがう。失敗から学ぼうと思っただけでは、失敗から学べないのである。
 失敗から学ぶ力をつけるには、「失敗から学ぶ」という行動を成立させる脳の回路を作らなければならない。行動を成立させるための回路は、その 行動をすることによってできていく。その行動をするときに脳が働き、神経回路に信号が伝わることによって、その行動を成立させるための神経回路のネットワークができていく。行動が繰り返されるほど信号の行き来がスムーズになり、しっかりとしたネットワークとして成立する。
 つまり必要なのは、失敗を観察・分析し、失敗を修正することを経験させるいうことである。失敗の原因を探究し、問題点を修正し、少しずつ目標に近づいていく過程の面白さ、そして成功の喜びを経験させる。そして、失敗は自分を成長させる糧になることを実感させる。その実感が、失敗から学ぶ姿勢をつくりチャレンジ精神を育てるのであり、観察・分析・修正の積み重ねが創造力を育てていくのである。

●育てるべきものは何か
 教育ではすべてのことは教えられない。これから先のことは教えられない。であるなら、未知のものにチャレンジし、失敗から学ぶ姿勢と力を持った探究型の脳、柔軟で意欲的な脳を育てることを目標としなければならない。
 最近、日本では学力低下が問題になり、知識重視の方向が出てきているが、本当の意味の学力とは何であるかは、結果としての知識ではなく、脳の働き方を土台にして考えるべきではないか。

2007/05/02

5 指示と指導−いかに相手の脳を働かせるか その2

つぎに示すのは、先輩(A)が後輩(B)を指導している2つの例である。
1年後にどちらの後輩が成長しているかは、言うまでもないことだろう。

【事例1】

A この記事だけどなあ。
B ハイ。

A (写真を示し)これだよ。こんなのしかなかったのか?
B なかなか、いいのがなくて・・・

A 迫力ないんだよな。もっと動きがあるものあったろう。
B (首をかしげる)

A 持って来いよ。写真のファイルだよ。
B ハイ!

A (Bが持ってきたファイルを探して)
  これだな。大きく焼いてこの部分だけ使え。
B ハイ!

A それから、ここな。表現がまずいんだよ。
  言いたいことがぼやけてるぞ。書き直しといたからな。
B ハイ。

A あとはまあいいだろう。写真できたら、すぐ印刷にまわせよ。
B ハイ。


【事例2】
A なかなかいい出来だよ。
B 本当ですか?

A 100点満点とは行かないけどな。
  2ヵ所ばかり気になるところがあるんだ。
B ハイ、どこですか?

A まず、この写真だ。もっと動きがほしいと思わないか?
B ハイ、そう思ったんですが、なかなかいいのが無くて。

A 1枚をそのまま使わなくてもいいんだぞ。
  いい部分を拡大して使うとか、2枚組み合わせてもいいんだ。
  それでも無いか?
B 写真持ってきます。
  これどうですか? ここを拡大するというのでは・・・

A うん、いいじゃないか。じゃあ、これはよし、と。
B ハイ!

A もうひとつは、ここの表現だ。少し印象が弱いな。
  結論を先に持ってきて、言葉も少し強い調子にする。
  時間がないから、順番を入れ替える程度でやってくれ。
  制限時間10分だ。
B ハイ!
  (10分後)これでどうでしょうか。

A よーし、まあいいだろう。これで決まりだ。
  写真拡大したら、すぐ印刷の方に回してくれ。
B ハイ!

A お前、いいセンスしてるぞ。つぎも頑張れよ。
B ハイ!

4 指示と指導−いかに相手の脳を働かせるか その1

 +1ずつでも毎日たしていけば、1年たつと+365になる。しかし、0ならば、1年たっても0のままである。逆に−1ならば、1年後には−365になり、+1ずつの場合とは730もの差がついてしまう。

 多くの人は人生の中で、それぞれ何らかの形で指導的立場にたつ。先輩として後輩に、上司として部下に、親として子に、そして教師として学習者に、行動のしかた,仕事のしかた,勉強のしかたをいろいろと指導する。相手に対して毎日毎日積み重ねていくその指導は、果たして相手を成長させる+1の指導になっているだろうか。
 相手を成長させる「+1」の指導となるか、単なる「指示」にとどまるか、逆に「成長の妨げ」となるか、そのポイントは、相手に対する働きかけが、いかに相手の脳を働かせるような行動になっているかというところにある。それは、私たちの脳の学習のしかたが「行動したことを学習する」 ということだからである。

 私たちの脳は、行動したときに働いた脳の働き方(神経回路への信号の伝わり方)を、行動のしかたの記憶として蓄積していくようになっている。 計算する能力は、計算行動をすることによって身につくのであり、計算式とその結果をただ覚えただけでは、計算はできるようにはならない。教師がやり方のモデルを示し、それにならって計算し、その結果を正しいものと比較し、まちがっていれば自分の行動を修正する。私たちが今、さまざまな計算ができるというのは、そうしたことを積み重ねてきたからなのである。

 つまり、相手に育てるべき行動をできるようにしてやるには、その行動を成立させるための脳の働き方を経験させてやらなければならないということである。指導的立場にあるものには、こうした脳行動学に基づく視点を持つことが、大変重要な課題であるといえよう。育てるべき相手の成長を大きく左右することになるからである。

▼あなたは、あなたが育てるべき相手の脳を働かせているか。
▼育てるべき相手に、目標や理念ばかり語っていないか。
▼考えたり決断している行動したのは、あなただけになっていないか。
▼わかりにくい指示で相手を混乱させたり、批判と叱責ばかりでやる気を失わせていないか。
▼その行動を成立させるための脳の働かせ方を、ちゃんと経験させているだろうか。

3 ビールは23歳で好きになる

〜「嫌い」が好きになるメカニズム〜

 2006年夏、或るビール会社が、ビールを「うまい」と感じるようになった年齢は何歳か、という調査を実施した。23歳、それが調査に応じた1万数千人の平均の値である。
 ビールは苦味のある飲料である。晩酌の一杯を楽しむ夫と私に娘(21歳)や息子(18歳)は「こんな苦いもの、どこがおいしいの?」と聞く。まだ苦味を「うまい」と感じる味覚を持っていないのだ。人間は生まれてすぐの段階では、甘い味しかおいしいとは感じない。赤ん坊の口に塩味や辛味、苦味、酸味のあるものを入れると、舌で押し出してしまう。甘み以外の味をおいしいと感じる感覚は、すべて、生まれて以後の食生活の中で獲得していくのである。

 新しい味覚の獲得には、時間がかかる。生後3〜4ヶ月で始める離乳食、軟らかいものから硬いものにするばかりでなく、薄味からだんだんと濃い味にしながら、塩味,甘辛味,酸味など色々な味に慣れさせていく。そうして、幼児、子どもの過程を経て大人と同じものを食べられるようになるのには十数年かかる。我が家では下の子が中学生になるまで、大人用カレーと子ども用カレーの2種類を作っていた。薬味の生姜や山葵、辛子を大人と同じように食すようになったのは、中学卒業の頃だった。
 空腹の状態を作り、落ち着いた状況で無理をさせず、繰り返し根気よく慣らしていく。その積み重ねで、いろいろなものが食べられるようになっていく。しかし人参、ピ−マンのように独特の強い香りや味を持つものを嫌い、いつまでも食べられない子どももいる。

 好き、嫌いの感情をつかさどるのは「古い脳」に属する「扁桃体」。「古い脳」とは脳幹や延髄など、生命維持にかかわる働きをする脳の部分を言う。その「古い脳」に属する「扁桃体」は自分の生命にとって安全なもの、心地よいものを好きと感じる働きを持っている。甘い味をおいしいと感じるのは、生命維持のためにDNAに組み込れたもので、赤ん坊が生きるために摂取する母乳、その甘さは安全なもの、自分の生命を守るものであることを、感覚としてとらえられるようになっているのである。
 扁桃体は、短期記憶を必要なものとそうでないものに振り分ける海馬のすぐ隣にある。扁桃体と海馬との間には情報のやり取りがあって、好き嫌いの情報は経験の記憶と結びついて変化していく。楽しさ心地よさ(=安全)とともに経験したものは好きになり、逆にいやな経験と結びつくと嫌いになっていく。

 このメカニズムをうまく使って、児童の野菜嫌いをなくした小学校がある。 人参やピーマンが嫌いな子が多いことを心配した栄養士さんが「宝物探し給食」というものを考えたのである。星型や動物型に切った野菜を各組数人に当たるように準備し、それを入れておかずをつくる。そして、宝物は誰のおかずに入っているかな、とやったのである。すると、子どもたちはその宝物を探すのが楽しくて一所懸命探す。見つかるとみんなの羨望のまなざしの中でその宝物を食べる。その結果、見事好き嫌いはなくなってしまったというのである。

 さてでは、ビールはなぜ23歳で好きになるのか。23歳というのは、学校を卒業して仕事につき少したった頃、仕事の厳しさや、難しさあるいは面白さを感じてきている、そんな頃だろう。前述の調査によれば、それまで「苦い」と感じていたビールを「うまい」と思ったその時の状況は、
   男性は仕事の打ち上げ,風呂上り  女性は仕事帰り,飲み会
 共通するのは、暑い日、よく冷えたビール、友人、仲間である。身体の水分要求に、仕事が終わったときの充実感・開放感と良い仲間が加わったとき、「苦い」が「うまい」に変わったのだ。 楽しい経験と結びつくことで、それまで嫌いであったものも食べられるようになる、好きになる。脳は、安全であること、快であること、そうした情報とともに入った味は良い情報として記憶するということである。このメカ二ズムを、うまく使うと食べ物ばかりでなく苦手なものを克服できる、いや、苦手をつくらないようにすることができる。その方法へのヒントがここにある。

2007/04/27

2 教えない方が、選手はのびる

 落合選手やイチロー選手を指導し、水島新司氏の野球漫画「野球狂の歌」の中に実名で登場するほどの名コーチ、高畠導宏氏(故人)の言葉である。指導しない方がよいという意味ではない。指導にはタイミングが必要だということである。コーチは選手の欠点に気づくとすぐあれこれと注意してしまいがちである。しかし、選手自身がそのことの重大性に気づいていないときや、まだ自分でできると思っているときには、右から左に聞き流されたり、逆に反発されたりしてしまう。だから、一方的にがみがみ言っても効果がないという。効果があるのは、向こうから相談に来たときだという。相手が、聞きたいという姿勢になったときに初めて、こちらの意見が相手に受け取られるということだろう。

 学習は、学習者が主体的に行うときに最も効果をあげる。学習の主体である脳の活動の本質が主体的、自発的であるからである。ただ聞いているだけの受身の学習では、脳は活動を停止させ、ときには全く休んで(眠って)しまうこともある。学習は、基本的には学習者が自分でやるものなのである。指導者が一方的に指導しても、それは相手には吸収されないということである。

 相手がやってくるまで待つ。高畠氏は、それを忍耐というが、ただぼんやりと待っているのではなく、絶えずその選手のことを観察し、今相手には何が必要かということを分析している。そうしておいて、選手の姿勢の変化を「待つ」のである。相手の姿勢を読み取ること、また、相手に学習すべきことを自分の問題として意識させること、そして、そのことを学びたいという姿勢を起こさせること、そのための場作りと働きかけ、それが、目標の知識・技術を指導するテクニックと同じぐらい、いやそれ以上に必要だということである。

 プロ野球界を離れた後、高畠氏は九州の高等学校で社会科の教師になった。氏が講演をした折に高校生たちの目標のない投げやりな心の状態にふれて、この子たちのために自分にできることがあるのではないかと転身したという。高畠氏の出席簿には生徒の名前の横にその生徒の将来の希望が書き込んである。折にふれそのことを話題にし、そして生徒がどう向かっているかを絶えず見守っているのだという。「見守っているよ」というメッセージを出しながら見守る、それがこの人に聞きに行こうという気にさせたのである。

2007/04/26

1 行動の単純化が脳の力を衰えさせる

 脳細胞は、生まれてから3年ぐらいの間は分裂して増えるが、それ以後は減っていくばかりだという。毎日10万個ぐらいずつ減っていくと言われる。人間の脳細胞の数は約150億個。1年で10万×365日=3,650万個、80歳になったころには3,650万×80=29億2000万個、つまり全体の20%が失われることになる。ボケや物忘れはそうした結果の現象というわけである。もっとも、脳はよく使っても15%ぐらいしか使われないというから、20%が失われても残りの部分を使ってきたえることはできるということである。これは年齢的なものであるが、脳細胞の減少は行動のしかたによっても起こるという。

 あるテレビ番組で、最近若い人の脳に異変が起きているという報告があった。若いにもかかわらず物忘れが激しいという、「若年性呆け」が多くなってきているというのである。前日会ったことを忘れている。買い物に出かけて店に着いたら、何を買いにきたのか忘れている。家に戻って家人に聞いてからもう一度出かけたが、店に着いたらまた忘れてしまっているといった例が多く見られる。また、いつもコンタクトレンズなのに珍しく眼鏡をかけているので聞くと、コンタクトをしても片方の目の視力が出ないので眼鏡をかけているのだがまだ見えないと言う。調べてみると、なんと見えない方の目に、コンタクトレンズが2枚入れていた。前日はずし忘れていたところに、重ねて入れていたという。このひとは30台の女性であるが、脳のCTスキャンをしてみると、正常な場合の70%の容量しかない、つまり70〜80代の人の脳になっているというのである。

 医師の診断によれば、萎縮の原因は全く病的なものではないという。脳を使わない生活をしているせいだという。脳のどの部分がどの程度活動しているかは、脳の血流量を調べることによってわかる。脳が活動している時は血流量が多くなるからである。血流量が多くなるとその部分の温度が高くなる。サーモグラフィーという道具で脳の表面の温度変化を調べると、脳のどの部分が活動しているかがわかるのである。
 その番組では、いろいろな生活行動における脳の活動量を調べた。すると、掃除機で掃除するのは、箒で掃除するのに比べてはるかに脳の活動量が少ない。文字や記号を見てボタンを押すだけの電卓での計算は、暗算するよりはるかに脳の活動量が少なく、脳の血流量はほとんどあがらない。ワープロで文字を書くのも、手で書くより脳の活動量ははるかに少ない。目的を持って手・指を動かす行動、たとえば、コミュニケーション、編み物、楽器を弾くことやダンスをすること、料理などのような、判断や思考と身体を動かすこととが複合した行動がより脳を活発に働かすことになる。

 生活における行動が、どんどん脳を使わないで済むようになっている。人間同士の付き合いやコミュニケーションも希薄になっている。その中で漫然と生活していたならば、脳は日々退化していくということになる。脳は、使わないでいるとその部分が萎縮していくのである。
 脳を活性化するには、行動を単純化してはいけないということである。「見ているだけ」「聞いているだけ」「覚えるだけ」の学習をして(させて)いないか。考えさせずに、指示したことだけをやらせていないか。一人孤独に仕事や勉強をして(させて)いないか。脳を働かせているのは、上司、教師、親だけになっていないか。
 私たちは、真に脳を活動させているかという視点で自分の行動や生活のあり方を見直してみる必要がある。また、人を動かす立場にある人、人を育てる立場にある人は、相手の脳を真に活動させているかという見地で、仕事や学習の内容や方法を考えてみる必要があるのではないか。