2007/09/11

13 試行錯誤の脳行動学的意味 

●二つの事例
≪ 事例1 ≫
 K大学医学部看護学科、卒業直前、これから看護の現場に出て行く学生たちに、「採血」の予行演習をさせた。2年生のときにしっかりと教えたはずだった。ところが、針のサイズも覚えていないし、正しい持ち方もできない。自信を持って採血できるという学生が、殆どいない。教師たちは愕然とし、残り少なくなった時間の中で、特訓したという。

≪ 事例2 ≫
 一方、T看護短期大学の採血の学習。じっくり時間をかけて学生自身で正しい針の選択と、正しい持ち方を見いださせる。いろいろな太さを針を見る。腕のシミュレータを使って血管の太さを調べて比較してみる。針を紙に刺してみて、針の太さによるあいた穴の大きさの違いを見る。グリセリンを加えて血液の粘度に近くした液をつくり、いろいろな太さの針で吸い込ませ、吸い込みやすさを比較する。そして、腕の動脈からの採血にふさわしい針を選ばせる。針の持ち方についての学習も同様に、自分でいろいろ調べさせ、試行錯誤させ、しっかり固定できる持ち方のポイントを発見させる。教師は答えを教えない。調べ方のアドバイスをしたり、モデル行動をして観察の対象になったりするだけだ。
 他校のように、針のサイズ・持ち方を教師が説明して教え、それを練習させれば、半分以下の時間で学習が終る。なぜ時間をかけて針の選び方,持ち方を探究させるのか。担当していた教授は言う。教師が説明して教えていたときは、その時間内の学習では出来るようになっていても、時間がたつと学生は針のサイズや持ち方を忘れてしまうことが多かった。ところが、この学習方式にしてからは、忘れなくなった。日頃は意識していなくても、その状況に出会えば対象を測定し判断して、自分で正しい針を選択し、正しい持ち方で採血することができるようになったというのである。

●脳の回路を使うほど、そして関連するものが多いほど、確かな記憶となる
 針のサイズや、注射器の持ち方(手の形,指の角度)を教科書で見たり、教師に教えてもらって覚えるというのは、「伝達―受容」型の意味記憶。この意味記憶の場合は、他人の判断の結果をただ受け取るだけで、脳の活動は単純であるから、脳の回路の使われ方が非常に少ない。したがって記憶の量も少ない。
 自分が行動したことを覚えるという記憶のしかたを、経験記憶という。脳は、行動したことは全部経験記憶として蓄積していく。成功したことはもちろん、失敗したことも全て記憶していく。見るだけ聞くだけの場合の脳の使い方(意味記憶)に比べると、自分で調べ、試行錯誤させる学習のさせ方は、そのことに関する脳の回路への刺激の量が格段に多い。さまざまな行動の対象の測定、判断、針の選択や正しい針の持ち方や操作を見出すための試行錯誤、そのときどきで使った脳の回路、それらが複雑に関連している。単純な記憶は、忘れやすいが、複雑に関連した経験記憶は忘れにくい。回路の連関として記憶が形成されるからである。
 加えて、自分で法則をみつけたものは忘れにくい、ということがある。そのときの感動が加わって、強い刺激として脳の回路に残っているからである。感情が絡むと強い記憶となる。感情を司る扁桃体が、海馬に必要な情報として記憶するよう指令を出すと考えられている。

●学習時間と学習の効果
 T看護短期大学のような学習は、一般的には、時間がかかるというので敬遠されている。しかし、教えても覚えていない教育にかける時間の方が無駄なのではないか。学習にかける時間は、単に所要時間だけを問題にするのではなく、学習者の脳の回路をしっかりつくるという観点から、考え直すべきではないか。

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