飛行機や船の、種類や構造、それにまつわる歴史的事件など様々なことがらについて、息子が調べたときに挟んだものだった。勉強が好きではなかった(というより嫌いだった)息子が、よくこんなことがらまで調べたものだと感心すると同時に、10数年前のある出来事を思い出した。
息子は、小学校3,4年の頃、TV番組だったか、コミックだったか、何かのきっかけで戦艦大和に興味を興味を抱き、それにかかわる本を読み始めた。そのうち、そのことがかつても軍国少年だった大叔父の知ることとなり、所蔵していた挿絵や写真の入った子供向け軍艦解説本のようなものをたくさんもらった。息子の興味はどんどん広がり、軍艦の種類、戦闘機の種類、戦記物にいたり、中学1年生の時には、お年玉で塩野七生氏の大作「ローマ人の物語」の中の『ハンニバル戦記』ヲ買いに行った。700ページにも及ぶ分厚いその本を、彼は何のためらいもなく買った。
買い物につき合った私は、そんな本が出ていたことをどうして知ったのか、と驚いたほどである。
★問題の出来事
問題の出来事は、中学2年のとき(あるいは3年のときだったか)に起きた。
息子は、世界史の教科書の記述の中に、ハンニバルとローマ帝国の戦いのことが書いてあったのを発見した。ギリシャ・ローマ時代の学習が待ち遠しいと言う。
その日、「今日の授業でやると思うんだ」と話を聴くのを楽しみに出かけて行った息子。
学校から帰ってきたので、「どうだった?」と聞く私に、残念そうに言った。
「あっという間に通り過ぎちゃったんだった。1分もなかった。」
本当にがっかりした様子だった。大きな時代の流れの中の出来事を、年表のように頭の中に叩き込んでいくような今の歴史の授業の中では、ハンニバルとローマの戦いのことのことなどは点のようなもので、それがどうして起きたのか、どのような戦いであったのかなどは問題にする暇もないのだ。今か今かとワクワクして待っていた息子、そしてあっという間に通り過ぎたその瞬間を想像すると、かわいそうやらおかしいやら。
★興味を持てば、言われなくても勉強する
しかし、息子が学校の授業を楽しみにするなんてことは、ついぞなかったことである。
そのことを好きになる、そのことに興味を持つということが、学習にとっていかに重要であるかを改めて思った。
好きにさえなれば、特に教えなくても、自分でそのことを調べたり、研究をしたりするものなのだ。
また、同じことに関心を持っている友だちと情報交換をしたりもする。
ということは、学校が力を入れるべきは、学習すべき内容を語る(説明する)ということではなく、興味を持たせること、好きにすること、面白いと思わせることではないか。
学校の授業で、学習内容そのものが面白いと思って学習した人(している人)はどれだけいるの
だろうか。私は、大学で文化史を学んだが、歴史に興味を持ったのは自宅にたくさんあった時代小説(父の趣味)を小学校のころから片端から読んでいたからで、学校の授業で好きになったわけではない。自分の興味でどんどん歴史小説や解説書を読んでいくのは面白くて時がたつのも忘れたが、授業で教師が教科書の解説をするのを聞いているのは実に退屈だった。
★学校は「きらい」を作り出している
改めて自分の生涯において、学校の授業のおかげで好きになったものがあるか、興味を持ったものがあるかと考えてみたとき、驚いたことに、それはほとんどないということに気がついた。その一方で、学校できらいになった、というものが多かった。数学、理科(特に化学、物理)、作文、英文法等々。周囲の人にも聞いてみたが、私同様、嫌いになったものの方が多い、というのが多数派だった。特に、理科は小学校の頃は面白かったけど中学になったら〇〇の法則とか計算ばかり、歴史は覚えることばかりでいやになったという声が多かった。
学校で学習させることによりきらいになるとはどうしたことか。
学校で「きらい」を作り出してどうするのか。
学校は一体何をしているのか。学校は、好きにする工夫、面白いと思わせる工夫、もっと調べたいと感じさせる工夫をどれほどしているのだろうか。
★「好きを育てる」ための研究を
文部科学省は、教員の人数を増やすか、事務職を増やして教員の雑務を減らすかして、内容に興味を持たせる工夫や、調べることは面白く楽しいことだと発見する場づくりを研究する時間を、教師に与える必要があるのではないか。
そもそも学校の勉強が面白くない、楽しくない、わからない、そして成績ばかり比べられる、そうしたことが学校でいろいろな問題が起こる原因の一つになっているのではないかとさえ私は思う。
まずは、学校の勉強を面白くすることに力を入れてみてはどうだろう。