2018/11/20

51 「好き」を育てる

 古い百科事典を処分しようと思ったら、付箋がたくさん挟み込まれているのに気がついた。
 飛行機や船の、種類や構造、それにまつわる歴史的事件など様々なことがらについて、息子が調べたときに挟んだものだった。勉強が好きではなかった(というより嫌いだった)息子が、よくこんなことがらまで調べたものだと感心すると同時に、10数年前のある出来事を思い出した。

 息子は、小学校3,4年の頃、TV番組だったか、コミックだったか、何かのきっかけで戦艦大和に興味を興味を抱き、それにかかわる本を読み始めた。そのうち、そのことがかつても軍国少年だった大叔父の知ることとなり、所蔵していた挿絵や写真の入った子供向け軍艦解説本のようなものをたくさんもらった。息子の興味はどんどん広がり、軍艦の種類、戦闘機の種類、戦記物にいたり、中学1年生の時には、お年玉で塩野七生氏の大作「ローマ人の物語」の中の『ハンニバル戦記』ヲ買いに行った。700ページにも及ぶ分厚いその本を、彼は何のためらいもなく買った。
 買い物につき合った私は、そんな本が出ていたことをどうして知ったのか、と驚いたほどである。

★問題の出来事


 問題の出来事は、中学2年のとき(あるいは3年のときだったか)に起きた。
 息子は、世界史の教科書の記述の中に、ハンニバルとローマ帝国の戦いのことが書いてあったのを発見した。ギリシャ・ローマ時代の学習が待ち遠しいと言う。
 その日、「今日の授業でやると思うんだ」と話を聴くのを楽しみに出かけて行った息子。
 学校から帰ってきたので、「どうだった?」と聞く私に、残念そうに言った。
 「あっという間に通り過ぎちゃったんだった。1分もなかった。」

 本当にがっかりした様子だった。大きな時代の流れの中の出来事を、年表のように頭の中に叩き込んでいくような今の歴史の授業の中では、ハンニバルとローマの戦いのことのことなどは点のようなもので、それがどうして起きたのか、どのような戦いであったのかなどは問題にする暇もないのだ。今か今かとワクワクして待っていた息子、そしてあっという間に通り過ぎたその瞬間を想像すると、かわいそうやらおかしいやら。

★興味を持てば、言われなくても勉強する


 しかし、息子が学校の授業を楽しみにするなんてことは、ついぞなかったことである。
 そのことを好きになる、そのことに興味を持つということが、学習にとっていかに重要であるかを改めて思った。
 好きにさえなれば、特に教えなくても、自分でそのことを調べたり、研究をしたりするものなのだ。
 また、同じことに関心を持っている友だちと情報交換をしたりもする。

 ということは、学校が力を入れるべきは、学習すべき内容を語る(説明する)ということではなく、興味を持たせること、好きにすること、面白いと思わせることではないか。
 学校の授業で、学習内容そのものが面白いと思って学習した人(している人)はどれだけいるの
だろうか。私は、大学で文化史を学んだが、歴史に興味を持ったのは自宅にたくさんあった時代小説(父の趣味)を小学校のころから片端から読んでいたからで、学校の授業で好きになったわけではない。自分の興味でどんどん歴史小説や解説書を読んでいくのは面白くて時がたつのも忘れたが、授業で教師が教科書の解説をするのを聞いているのは実に退屈だった。

 

★学校は「きらい」を作り出している


 改めて自分の生涯において、学校の授業のおかげで好きになったものがあるか、興味を持ったものがあるかと考えてみたとき、驚いたことに、それはほとんどないということに気がついた。その一方で、学校できらいになった、というものが多かった。数学、理科(特に化学、物理)、作文、英文法等々。周囲の人にも聞いてみたが、私同様、嫌いになったものの方が多い、というのが多数派だった。特に、理科は小学校の頃は面白かったけど中学になったら〇〇の法則とか計算ばかり、歴史は覚えることばかりでいやになったという声が多かった。

 学校で学習させることによりきらいになるとはどうしたことか。
 学校で「きらい」を作り出してどうするのか。
 学校は一体何をしているのか。学校は、好きにする工夫、面白いと思わせる工夫、もっと調べたいと感じさせる工夫をどれほどしているのだろうか。

★「好きを育てる」ための研究を


 文部科学省は、教員の人数を増やすか、事務職を増やして教員の雑務を減らすかして、内容に興味を持たせる工夫や、調べることは面白く楽しいことだと発見する場づくりを研究する時間を、教師に与える必要があるのではないか。
 
 そもそも学校の勉強が面白くない、楽しくない、わからない、そして成績ばかり比べられる、そうしたことが学校でいろいろな問題が起こる原因の一つになっているのではないかとさえ私は思う。
 まずは、学校の勉強を面白くすることに力を入れてみてはどうだろう。
 
 
 

 
 












 

2018/11/15

50 ワールドカップとハロウィーン

★FIFAワールドカップロシア大会で


 今年の6月から7月にかけて開催されたサッカーのワールドカップロシア大会で、日本人サポーターたちの行動が賞賛された。試合後に、自分たちが観戦した会場のごみを集めきれいにして帰るという行動である。
 ベルギーに敗戦した後にも行ったことが報道され、「負けた時でさえ」と感嘆の声が上がった。
それはさらに、ベルギーに敗戦した日本チームが、ロッカールームをきれいに清掃し、ロシア語で「
ありがとう」のカードを残して去ったことが、感激した大会スタッフにより写真付きでツイートされた。
 こうした行動は世界の人々の心をとらえ、「使う前よりきれいに」という日本の考え方として伝えられ、多くの報道機関やネットユーザーたちによって拡散された。それらを見た多くの日本人は、きっと嬉しく誇らしく感じたことだろう。

 ところが、それから3か月余りたって、ワールドカップでの日本人評価をひっくり返すようなことが起きた。

★渋谷のハロウィーンで


 10月末の渋谷、ハロウィーンを楽しむために集まった100万を超える人々が集まった。そこでとんでもない騒ぎが起きた。喧嘩、盗難、痴漢、泥酔、そして残された大量のゴミ。新聞やTVで報道されたその有様は、もはや犯罪と言った方がよいようなものだった。そして、翌日以降ネット上には新聞やTVでの報道をはるかに超えた酷い実態を伝える情報があふれた。
 ワールドカップでの日本人と、この日の日本人・・・いったいどちらの日本人が本物?

 もちろんどちらも日本人である。
 しかし、ワールドカップでの日本人は、正確に言うなら、ワールドカップに参加した日本人、選手・スタッフ・サポーターたちであり、「使う前よりきれいに」という行動姿勢は、日本代表チームとして海外に出ていくものとして、そしてそのサポーターとして、日本を代表する立場を自覚している彼らの心意気の表れといってよいだろう。

 日本の国の中だけにいたのでは、そういう自覚はなかなか生まれてこない。日本人としての行動、国際社会とまでは言わなくても社会の中での行動のしかたを考えてみたこともない人々がまだまだいるのである。
 その証拠に、ワールドカップの予選リーグが展開されていたとき、各地でパブリック・ビューイングがセッティングされたが、それに集まった人々のマナーは必ずしも良いものばかりではなかったのである。特に東京渋谷の会場では、終了後に残されたゴミは、それはもう「半端ない」ものであったという。

★祭りのあと


 「ゴミ捨てはところ構わず型」の日本人は結構いるようである。
 パブリック・ビューイングやハロウィーンならずとも、ネットで「祭りのあと」「ゴミ」というキーワードで検索すると、出るわ、出るわ、祭りや花火大会、川開き、海開きなどのあとが、ゴミの山になるのを嘆く写真付きの書き込みがたくさんある。
 例えば、毎年100万人もの観客を集める東京都杉並区の高円寺阿波踊り(これは私の実家のすぐ近くである)、昨年は20トンのゴミが出たという。また、多摩川などの河川敷で行われるバーベキューを楽しむ人々がたくさんいるが、そのあとのゴミ放置は、地元の人々の悩みの種になっており、TVや新聞でも何回も報道されている。

★「日本の街はきれい」といわれるが・・・


 「日本の街はきれいだ。ゴミが落ちていない」と、最近目に見えて増加している海外からの観光客からは、そうした評価を受けているようだ。確かに、私の子どもの頃に比べれば、日本各地の街は格段にきれいになったと思う。
 街をきれいにしようという動きは、東京オリンピック(1964年)の準備の一環として始まった。東京都は、ゴミの取り残しや臭いのもとをなくそうと、ゴミ箱をポリバケツ型にするなどして家庭ゴミの回収方式を変えた。戦争中に停止し、戦後少しずつ復活させていた道路清掃についても国が主導し機械化を進め、東京都も追随した。人力による歩道清掃などは失業対策の一環でもあったようであるが、ともかくそうした方向が、他の自治体や企業、町の自治会などにも拡がり、今日の“きれいな街”を作り上げてきた。


  しかしながら、行政の手の届かぬ裏通りや、あまり人目のつかぬところでは、歩きながら飲食したと思われる菓子の袋や空き缶、たばこの吸い殻などが落ちているし、JADECの事務所の近くの畑などは、通りすがりの自動車の窓からゴミ袋を投げ込まれることすらある。一人一人の日本人のところにまでは、まだまだ街をきれいにしようという精神は行き渡っていないことがわかる。

★これからは一人一人の問題


 小さな地域の祭りや、地元の人たちが中心のイベントでは、このようなゴミだらけの状態になるということはあまりない。後片付けも、自分たちの仕事になるからである。
 しかし、パブリック・ビューイングやハロウィーン、そして何万人もの人手が集まるおおきな祭りは、互いに顔も知らない人々が様々なところから集まってくる。後始末には関わらない、無責任な人々の集まりである。そうした個人個人の行動姿勢を変えていくにはどうしたらよいのだろうか。

 道徳教育のように、「公共の場にゴミを捨ててはいけない」と説教しても始まるまい。言葉で説明されたからといって、行動のしかたが変わるものではない。具体的な行動の場の中で、きれいにするのは気持ちがいい、という心情が生まれるようにしなくてはならない。

 まず、あたりかまわずゴミを捨てさせないという環境をつくることが必要だ。
 もうすでにゴミだらけなところには、「ま、いいか」「どうせきたないんだから」という気持ちになるが、ゴミひとつないところにはゴミは捨てにくい。
 それから、きちんと捨てさせる、そのための工夫も必要だ。
 もうひとつ、ゴミが出ないようにする工夫も必要だ。
 そしてそれを伝える工夫と、そうしたことを進める活動への参加の呼びかけも。

 良いシステムができれば、その中で一人一人が育っていくことになる。
 現在日本各地で行われているゴミの分別収集のシステムが、日本人一人一人のゴミ処理行動のセンスを育ててきたことは確かなのだから。

★2020東京オリンピックをチャンスとして


 2020年東京オリンピック、これはチャンスである。
 きっとあちらこちらでパブリック・ビューイングがセッティングされ、人々が多く集まるに違いない。
 そこで、いかにゴミを出さずに、他の国の人々と友好的に競技を楽しむか。
 一度目のオリンピックは、街をきれいにする公的なシステムを作り上げるきっかけとなった。
 二度目のオリンピックでは、「使う前よりきれいに」の精神が、より多くの人々の心に根付かせたいものである。



【追記】


 ネットを見ていたら、祭りの際の面白いゴミ対策が投稿されていた。ゴミ収集車をゴミ捨て場にしているのである。ゴミの種類ごとに収集車を用意、人々は分類して捨てる。
 ゴミ収集車は1トン収納できる。いっぱいになったらフタを閉じて、そのまま運ぶというものである。20トンものゴミには対応するのは難しいかもしれないが、なかなかのアイディア。
 https://grapee.jp/538345
 


 



2018/11/04

49 自由に研究しろと言われても・・・②


★70%の親子が自由研究で悩んでいる 


 ベネッセ教育研究所の調査によれば、小学生を持つ家庭の70%が、夏休みの自由研究に悩んでいるという。
 自由研究であるのだから、当然学校では自由研究の指導は行わない。子どもの自由な発想と、何にもとらわれない方法で研究するのが建前である。何の縛りもない。何でも研究したいことを、好きな方法で研究すればよいのである。
 ところが、その自由研究に、70%の親子が悩んでいるというのである。

 そもそも、夏休みの自由研究のテーマが浮かばない。調べたいことがないのだ。
 そして、調べ方が思いつかない。どうやってよいのかわからない。
 子どもに泣きつかれて、親子で悩んでしまう。
 楽しいはずの夏休み、いったい何故こんなことが起こるのか。


★自由研究ができないのは、学校のせい


 結論から言うと、これは、学校でこどもの「研究力」を育てていないからである。

 今の学校では、整理された知識を教えることが中心になっている。
 多くのことについて「知っている子ども」を育てているということだ。
 そして、その教育の方向を正しい、と親も考えている。
 中学へ進む、高校に進むための試験に通らなけれなばらないからだ。
 子どもの疑問を引出し、興味を持たせ、考えさせるなどということをしている暇がないのだ。
 
 しかし、知識を詰め込むことにばかり頭を使っていると、不思議なことにも疑問もいだかず、いろいろなことに興味を持たない脳が出来上がってしまうのだ。

 

★脳本来の働き方は、探究的


 幼い子どもが、大人につぎつぎと「あれなあに?」「これなあに?」「ねえどうして?」「なんで?」と質問しているのを見たことがあるだろう。自分の経験として持っている人も多いことだろう。
 本来、子どもの脳(人間の脳というべきかもしれない)は、そう働くものだ。わからないこと、知らないこと、不思議なことを探究しようとするのである。自分を取り巻く環境が安全かどうかを調べるための本能的なはたらきだと言われている。

 その働きを抑えてしまっているのが、大人(親)であり、学校だと言えるだろう。
 「うるさいわね、だまってなさい」「今忙しいんだ」と子供の疑問を押しつぶし、学校の勉強以外に関心を持つと、「そんなことをやっている暇があれば勉強をしろ」「いつ勉強するのか。今でしょ!」と追い込むのである。


★知識の詰め込み型学習をしていると・・・


 試験のためにバラバラに詰め込んだ知識は、そのあとほとんど使われない。そして大半は数年、早ければ数カ月もたてば忘れてしまう。それに忘れてしまっても、何のさしつかえもない、そういう知識だ。
 しかしさしつかえるのは、脳の働き方が変わるということだ。主体的に考えることなく、ひたすら教えられたことを覚えるというような行動の仕方をしていると、そういう行動の仕方しかできない脳になってしまうのだ。

 しばらく前に、こんなコマーシャルがあった。
 新入社員らしい女性が、先輩に怒鳴られ怒鳴られ、落ち込みながら仕事をする映像に、次のようなナレーションが重なる。
 「学校では、余計なことを考えるな、言われたとおりに勉強しろと言われた。会社に入ったら、そんなことを人に聞くな、自分で考えろ、と怒られる・・・」
 何のコマーシャルだったのか覚えていないのだが、これは笑えない事実だ。

 

★生きる力を育てるための学校なのだから


 こう考えてくると、現在の夏休みの自由研究の位置づけそのものがおかしい。
 学校の普段の授業では知識を詰め込み、いっぱいいっぱいにしておいて、さあ夏休みです、自由に考え研究してくださいと言って、放り出す。
 日頃から学校の勉強ばかりにとらわれず、本能のままに疑問を追究している子どもはやっていけるかもしれないが、まじめに、知識を詰め込むばかりの勉強をしてきた子どもは、急に違うことを要求されて困ってしまうのだ。

 子どもたちがいずれ出ていくことになる社会、仕事の場には、初めから決まった答えがあるわけではない。観察、予測、実験、結果の分析、修正、そうしたことの連続であり積み重ねである。主体的で、研究的な行動の仕方こそ力となる。
 さまざまなことがらに対し、子どもに興味を持たせ、疑問を引き出し、考えさせ、調べさせる、そうした姿勢と方法を育ててやることこそ、学校の役目ではないのか。
 
 子どもが自分の力で、自信を持って生きていく力を育てることこそ、教育の本当の目標だと思う。
 夏休みの自由研究の責任を家庭に押し付けるのではなく、普段の授業こそを、子どもの研究心を育てるものに切り替える必要があるということだろう。