2018/11/20

51 「好き」を育てる

 古い百科事典を処分しようと思ったら、付箋がたくさん挟み込まれているのに気がついた。
 飛行機や船の、種類や構造、それにまつわる歴史的事件など様々なことがらについて、息子が調べたときに挟んだものだった。勉強が好きではなかった(というより嫌いだった)息子が、よくこんなことがらまで調べたものだと感心すると同時に、10数年前のある出来事を思い出した。

 息子は、小学校3,4年の頃、TV番組だったか、コミックだったか、何かのきっかけで戦艦大和に興味を興味を抱き、それにかかわる本を読み始めた。そのうち、そのことがかつても軍国少年だった大叔父の知ることとなり、所蔵していた挿絵や写真の入った子供向け軍艦解説本のようなものをたくさんもらった。息子の興味はどんどん広がり、軍艦の種類、戦闘機の種類、戦記物にいたり、中学1年生の時には、お年玉で塩野七生氏の大作「ローマ人の物語」の中の『ハンニバル戦記』ヲ買いに行った。700ページにも及ぶ分厚いその本を、彼は何のためらいもなく買った。
 買い物につき合った私は、そんな本が出ていたことをどうして知ったのか、と驚いたほどである。

★問題の出来事


 問題の出来事は、中学2年のとき(あるいは3年のときだったか)に起きた。
 息子は、世界史の教科書の記述の中に、ハンニバルとローマ帝国の戦いのことが書いてあったのを発見した。ギリシャ・ローマ時代の学習が待ち遠しいと言う。
 その日、「今日の授業でやると思うんだ」と話を聴くのを楽しみに出かけて行った息子。
 学校から帰ってきたので、「どうだった?」と聞く私に、残念そうに言った。
 「あっという間に通り過ぎちゃったんだった。1分もなかった。」

 本当にがっかりした様子だった。大きな時代の流れの中の出来事を、年表のように頭の中に叩き込んでいくような今の歴史の授業の中では、ハンニバルとローマの戦いのことのことなどは点のようなもので、それがどうして起きたのか、どのような戦いであったのかなどは問題にする暇もないのだ。今か今かとワクワクして待っていた息子、そしてあっという間に通り過ぎたその瞬間を想像すると、かわいそうやらおかしいやら。

★興味を持てば、言われなくても勉強する


 しかし、息子が学校の授業を楽しみにするなんてことは、ついぞなかったことである。
 そのことを好きになる、そのことに興味を持つということが、学習にとっていかに重要であるかを改めて思った。
 好きにさえなれば、特に教えなくても、自分でそのことを調べたり、研究をしたりするものなのだ。
 また、同じことに関心を持っている友だちと情報交換をしたりもする。

 ということは、学校が力を入れるべきは、学習すべき内容を語る(説明する)ということではなく、興味を持たせること、好きにすること、面白いと思わせることではないか。
 学校の授業で、学習内容そのものが面白いと思って学習した人(している人)はどれだけいるの
だろうか。私は、大学で文化史を学んだが、歴史に興味を持ったのは自宅にたくさんあった時代小説(父の趣味)を小学校のころから片端から読んでいたからで、学校の授業で好きになったわけではない。自分の興味でどんどん歴史小説や解説書を読んでいくのは面白くて時がたつのも忘れたが、授業で教師が教科書の解説をするのを聞いているのは実に退屈だった。

 

★学校は「きらい」を作り出している


 改めて自分の生涯において、学校の授業のおかげで好きになったものがあるか、興味を持ったものがあるかと考えてみたとき、驚いたことに、それはほとんどないということに気がついた。その一方で、学校できらいになった、というものが多かった。数学、理科(特に化学、物理)、作文、英文法等々。周囲の人にも聞いてみたが、私同様、嫌いになったものの方が多い、というのが多数派だった。特に、理科は小学校の頃は面白かったけど中学になったら〇〇の法則とか計算ばかり、歴史は覚えることばかりでいやになったという声が多かった。

 学校で学習させることによりきらいになるとはどうしたことか。
 学校で「きらい」を作り出してどうするのか。
 学校は一体何をしているのか。学校は、好きにする工夫、面白いと思わせる工夫、もっと調べたいと感じさせる工夫をどれほどしているのだろうか。

★「好きを育てる」ための研究を


 文部科学省は、教員の人数を増やすか、事務職を増やして教員の雑務を減らすかして、内容に興味を持たせる工夫や、調べることは面白く楽しいことだと発見する場づくりを研究する時間を、教師に与える必要があるのではないか。
 
 そもそも学校の勉強が面白くない、楽しくない、わからない、そして成績ばかり比べられる、そうしたことが学校でいろいろな問題が起こる原因の一つになっているのではないかとさえ私は思う。
 まずは、学校の勉強を面白くすることに力を入れてみてはどうだろう。
 
 
 

 
 












 

2018/11/15

50 ワールドカップとハロウィーン

★FIFAワールドカップロシア大会で


 今年の6月から7月にかけて開催されたサッカーのワールドカップロシア大会で、日本人サポーターたちの行動が賞賛された。試合後に、自分たちが観戦した会場のごみを集めきれいにして帰るという行動である。
 ベルギーに敗戦した後にも行ったことが報道され、「負けた時でさえ」と感嘆の声が上がった。
それはさらに、ベルギーに敗戦した日本チームが、ロッカールームをきれいに清掃し、ロシア語で「
ありがとう」のカードを残して去ったことが、感激した大会スタッフにより写真付きでツイートされた。
 こうした行動は世界の人々の心をとらえ、「使う前よりきれいに」という日本の考え方として伝えられ、多くの報道機関やネットユーザーたちによって拡散された。それらを見た多くの日本人は、きっと嬉しく誇らしく感じたことだろう。

 ところが、それから3か月余りたって、ワールドカップでの日本人評価をひっくり返すようなことが起きた。

★渋谷のハロウィーンで


 10月末の渋谷、ハロウィーンを楽しむために集まった100万を超える人々が集まった。そこでとんでもない騒ぎが起きた。喧嘩、盗難、痴漢、泥酔、そして残された大量のゴミ。新聞やTVで報道されたその有様は、もはや犯罪と言った方がよいようなものだった。そして、翌日以降ネット上には新聞やTVでの報道をはるかに超えた酷い実態を伝える情報があふれた。
 ワールドカップでの日本人と、この日の日本人・・・いったいどちらの日本人が本物?

 もちろんどちらも日本人である。
 しかし、ワールドカップでの日本人は、正確に言うなら、ワールドカップに参加した日本人、選手・スタッフ・サポーターたちであり、「使う前よりきれいに」という行動姿勢は、日本代表チームとして海外に出ていくものとして、そしてそのサポーターとして、日本を代表する立場を自覚している彼らの心意気の表れといってよいだろう。

 日本の国の中だけにいたのでは、そういう自覚はなかなか生まれてこない。日本人としての行動、国際社会とまでは言わなくても社会の中での行動のしかたを考えてみたこともない人々がまだまだいるのである。
 その証拠に、ワールドカップの予選リーグが展開されていたとき、各地でパブリック・ビューイングがセッティングされたが、それに集まった人々のマナーは必ずしも良いものばかりではなかったのである。特に東京渋谷の会場では、終了後に残されたゴミは、それはもう「半端ない」ものであったという。

★祭りのあと


 「ゴミ捨てはところ構わず型」の日本人は結構いるようである。
 パブリック・ビューイングやハロウィーンならずとも、ネットで「祭りのあと」「ゴミ」というキーワードで検索すると、出るわ、出るわ、祭りや花火大会、川開き、海開きなどのあとが、ゴミの山になるのを嘆く写真付きの書き込みがたくさんある。
 例えば、毎年100万人もの観客を集める東京都杉並区の高円寺阿波踊り(これは私の実家のすぐ近くである)、昨年は20トンのゴミが出たという。また、多摩川などの河川敷で行われるバーベキューを楽しむ人々がたくさんいるが、そのあとのゴミ放置は、地元の人々の悩みの種になっており、TVや新聞でも何回も報道されている。

★「日本の街はきれい」といわれるが・・・


 「日本の街はきれいだ。ゴミが落ちていない」と、最近目に見えて増加している海外からの観光客からは、そうした評価を受けているようだ。確かに、私の子どもの頃に比べれば、日本各地の街は格段にきれいになったと思う。
 街をきれいにしようという動きは、東京オリンピック(1964年)の準備の一環として始まった。東京都は、ゴミの取り残しや臭いのもとをなくそうと、ゴミ箱をポリバケツ型にするなどして家庭ゴミの回収方式を変えた。戦争中に停止し、戦後少しずつ復活させていた道路清掃についても国が主導し機械化を進め、東京都も追随した。人力による歩道清掃などは失業対策の一環でもあったようであるが、ともかくそうした方向が、他の自治体や企業、町の自治会などにも拡がり、今日の“きれいな街”を作り上げてきた。


  しかしながら、行政の手の届かぬ裏通りや、あまり人目のつかぬところでは、歩きながら飲食したと思われる菓子の袋や空き缶、たばこの吸い殻などが落ちているし、JADECの事務所の近くの畑などは、通りすがりの自動車の窓からゴミ袋を投げ込まれることすらある。一人一人の日本人のところにまでは、まだまだ街をきれいにしようという精神は行き渡っていないことがわかる。

★これからは一人一人の問題


 小さな地域の祭りや、地元の人たちが中心のイベントでは、このようなゴミだらけの状態になるということはあまりない。後片付けも、自分たちの仕事になるからである。
 しかし、パブリック・ビューイングやハロウィーン、そして何万人もの人手が集まるおおきな祭りは、互いに顔も知らない人々が様々なところから集まってくる。後始末には関わらない、無責任な人々の集まりである。そうした個人個人の行動姿勢を変えていくにはどうしたらよいのだろうか。

 道徳教育のように、「公共の場にゴミを捨ててはいけない」と説教しても始まるまい。言葉で説明されたからといって、行動のしかたが変わるものではない。具体的な行動の場の中で、きれいにするのは気持ちがいい、という心情が生まれるようにしなくてはならない。

 まず、あたりかまわずゴミを捨てさせないという環境をつくることが必要だ。
 もうすでにゴミだらけなところには、「ま、いいか」「どうせきたないんだから」という気持ちになるが、ゴミひとつないところにはゴミは捨てにくい。
 それから、きちんと捨てさせる、そのための工夫も必要だ。
 もうひとつ、ゴミが出ないようにする工夫も必要だ。
 そしてそれを伝える工夫と、そうしたことを進める活動への参加の呼びかけも。

 良いシステムができれば、その中で一人一人が育っていくことになる。
 現在日本各地で行われているゴミの分別収集のシステムが、日本人一人一人のゴミ処理行動のセンスを育ててきたことは確かなのだから。

★2020東京オリンピックをチャンスとして


 2020年東京オリンピック、これはチャンスである。
 きっとあちらこちらでパブリック・ビューイングがセッティングされ、人々が多く集まるに違いない。
 そこで、いかにゴミを出さずに、他の国の人々と友好的に競技を楽しむか。
 一度目のオリンピックは、街をきれいにする公的なシステムを作り上げるきっかけとなった。
 二度目のオリンピックでは、「使う前よりきれいに」の精神が、より多くの人々の心に根付かせたいものである。



【追記】


 ネットを見ていたら、祭りの際の面白いゴミ対策が投稿されていた。ゴミ収集車をゴミ捨て場にしているのである。ゴミの種類ごとに収集車を用意、人々は分類して捨てる。
 ゴミ収集車は1トン収納できる。いっぱいになったらフタを閉じて、そのまま運ぶというものである。20トンものゴミには対応するのは難しいかもしれないが、なかなかのアイディア。
 https://grapee.jp/538345
 


 



2018/11/04

49 自由に研究しろと言われても・・・②


★70%の親子が自由研究で悩んでいる 


 ベネッセ教育研究所の調査によれば、小学生を持つ家庭の70%が、夏休みの自由研究に悩んでいるという。
 自由研究であるのだから、当然学校では自由研究の指導は行わない。子どもの自由な発想と、何にもとらわれない方法で研究するのが建前である。何の縛りもない。何でも研究したいことを、好きな方法で研究すればよいのである。
 ところが、その自由研究に、70%の親子が悩んでいるというのである。

 そもそも、夏休みの自由研究のテーマが浮かばない。調べたいことがないのだ。
 そして、調べ方が思いつかない。どうやってよいのかわからない。
 子どもに泣きつかれて、親子で悩んでしまう。
 楽しいはずの夏休み、いったい何故こんなことが起こるのか。


★自由研究ができないのは、学校のせい


 結論から言うと、これは、学校でこどもの「研究力」を育てていないからである。

 今の学校では、整理された知識を教えることが中心になっている。
 多くのことについて「知っている子ども」を育てているということだ。
 そして、その教育の方向を正しい、と親も考えている。
 中学へ進む、高校に進むための試験に通らなけれなばらないからだ。
 子どもの疑問を引出し、興味を持たせ、考えさせるなどということをしている暇がないのだ。
 
 しかし、知識を詰め込むことにばかり頭を使っていると、不思議なことにも疑問もいだかず、いろいろなことに興味を持たない脳が出来上がってしまうのだ。

 

★脳本来の働き方は、探究的


 幼い子どもが、大人につぎつぎと「あれなあに?」「これなあに?」「ねえどうして?」「なんで?」と質問しているのを見たことがあるだろう。自分の経験として持っている人も多いことだろう。
 本来、子どもの脳(人間の脳というべきかもしれない)は、そう働くものだ。わからないこと、知らないこと、不思議なことを探究しようとするのである。自分を取り巻く環境が安全かどうかを調べるための本能的なはたらきだと言われている。

 その働きを抑えてしまっているのが、大人(親)であり、学校だと言えるだろう。
 「うるさいわね、だまってなさい」「今忙しいんだ」と子供の疑問を押しつぶし、学校の勉強以外に関心を持つと、「そんなことをやっている暇があれば勉強をしろ」「いつ勉強するのか。今でしょ!」と追い込むのである。


★知識の詰め込み型学習をしていると・・・


 試験のためにバラバラに詰め込んだ知識は、そのあとほとんど使われない。そして大半は数年、早ければ数カ月もたてば忘れてしまう。それに忘れてしまっても、何のさしつかえもない、そういう知識だ。
 しかしさしつかえるのは、脳の働き方が変わるということだ。主体的に考えることなく、ひたすら教えられたことを覚えるというような行動の仕方をしていると、そういう行動の仕方しかできない脳になってしまうのだ。

 しばらく前に、こんなコマーシャルがあった。
 新入社員らしい女性が、先輩に怒鳴られ怒鳴られ、落ち込みながら仕事をする映像に、次のようなナレーションが重なる。
 「学校では、余計なことを考えるな、言われたとおりに勉強しろと言われた。会社に入ったら、そんなことを人に聞くな、自分で考えろ、と怒られる・・・」
 何のコマーシャルだったのか覚えていないのだが、これは笑えない事実だ。

 

★生きる力を育てるための学校なのだから


 こう考えてくると、現在の夏休みの自由研究の位置づけそのものがおかしい。
 学校の普段の授業では知識を詰め込み、いっぱいいっぱいにしておいて、さあ夏休みです、自由に考え研究してくださいと言って、放り出す。
 日頃から学校の勉強ばかりにとらわれず、本能のままに疑問を追究している子どもはやっていけるかもしれないが、まじめに、知識を詰め込むばかりの勉強をしてきた子どもは、急に違うことを要求されて困ってしまうのだ。

 子どもたちがいずれ出ていくことになる社会、仕事の場には、初めから決まった答えがあるわけではない。観察、予測、実験、結果の分析、修正、そうしたことの連続であり積み重ねである。主体的で、研究的な行動の仕方こそ力となる。
 さまざまなことがらに対し、子どもに興味を持たせ、疑問を引き出し、考えさせ、調べさせる、そうした姿勢と方法を育ててやることこそ、学校の役目ではないのか。
 
 子どもが自分の力で、自信を持って生きていく力を育てることこそ、教育の本当の目標だと思う。
 夏休みの自由研究の責任を家庭に押し付けるのではなく、普段の授業こそを、子どもの研究心を育てるものに切り替える必要があるということだろう。

2018/08/23

48 自由に研究しろと言われても・・・①

 夏休みになると、たいていどこかのTV局で、自由研究を取り上げる。
 何を研究するのか、どのように取り組むか、そしてどうまとめるか。
 子どもにとっても、親にとっても悩みの種であるからだろう。
 しかし、そうした中で、生き生きと研究する子どもたちもいる。
 8月17日のテレ朝のモーニングショーで、そうした子どもたちを紹介していた。
 その中の一人、虫好きの少年、西川君、中学1年生。
 西川君は「虫が集まるコンビニ、集まらないコンビニ」の研究をした。

それは、小さな「?」から始まった


 2015年夏のある夜、お父さんとコンビニに買い物に行き、出てきたら車にカミキリムシがついていた。西川君はうれしかった。そういえば、コンビニの周りには結構虫が集まっていたなあ。
 じゃあ、もう1軒行ってみよう。ところが次の店の周りには、虫は集まっていなかった。
 どうして虫が集まる店と、集まらない店があるんだろう???

 そしてそこからがすごい。周辺10キロ、39店舗のコンビニについて、立地条件など様々なことについて調べた。すると面白いことがわかった。
 虫の集まり方は、立地条件には関係がなく、虫が集まるのはサークルKサンクス。セブンイレブンには集まらない。その中間がローソンだ。そしてその理由をつきとめたのだ。

 虫の集まるサークルKと、集まらないセブンイレブンとでは、店の照明の色が違う気がした。そこで各店舗の写真を撮って、照明の色を比較したところ、サークルKが青っぽいのに対して、セブンイレブンは黄色っぽい。そしてローソンはその中間。虫が好む明かりの色があるらしい。
 西川君は、簡易分光器や特殊なフィルターを使って、店の明かりをしらべ、虫の好む光の波長を探り出したのだ。
 研究の成果はまとめて(A4版69ページにもなったそうだ)昆虫学会で発表、評判になったそうだ。


 

 研究する子どもが育つ環境


 西川君は現在高校1年生、やっぱり研究をしている。現在のテーマは「昆虫と光」「昆虫と匂い」。
(相変わらず、虫が好きなんだな~) 将来は昆虫の研究にかかわる仕事に就きたいと言っているそうだ。

 ふとした出来事や現象について疑問に思う子、疑問に思わない子
 そのことに興味を持つ子、持たない子
 疑問についてすぐ答えを聞く子、聞いて終わりにする子
 聞かないでそのまま終わりにする子
 
 子どもの疑問に対して「つまらないことを聞くんじゃない」という親
 「そんなこと自分で調べなさい」という親
 すぐ答えを教えてしまう親
 いろいろな子どもがいて、いろいろな親がいる。

 疑問を持ち、そのことに興味をいだく。そしてそのことについて調べ研究する。
 そうした子どもはどのような環境で育ってくるのだろうか。
 「コンビニ昆虫」の研究のとき、西川君の家では、お父さんは車の運転、お母さんは記録をとることに協力したという。どんな会話がなされたのだろうか。ちょっと想像してみた。

 〇▽$◆%〇▲▽&だったんだ。どうしてかなあ~
 「面白いことに気がついたね」
 「ほんと、どうしてかしらね」
 「どうしたら調べられると思うかい?」
 △▼◆%〇&$▽を比べてみたらどうかな~
 「うん、それはいいんじゃないか」
 「でも、夜は自転車じゃあ、危ないんじゃない?」
 「いくらも行けないしな。じゃあ、お父さんの車で行こう」
 「何だか面白そうね。私も行ってもいいかしら」


研究する子どもを育てるのは親の役目なの?


 番組では、自由研究において大切なのは「答えを教えるのではなく、サポートすることが大切」とまとめていた。子どもに対する親の姿勢ということだ。
 今は、研究する子どもが育つのは、家庭の環境だと考えられているのだ。

 しかし、ちょっと待て。もちろん親の姿勢も大切だ。
 でも、子どもの研究する姿勢を育てるのは、親の役目なの?
 じゃあ、学校は何を育てているんだろう。

(以下次稿)


 




 

 
 

2018/08/21

47 「を」でなくて「から」・・・香川照之の昆虫すごいぜ

 久々に「これはおもしろい」と思う教育番組に出会った。
 EテレことNHK教育TVの『香川照之の昆虫すごいぜ』である。
 俳優であり歌舞伎役者でもある香川照之さんが、メインキャラクターのカマキリ先生に扮し、授業という名目で、昆虫の生態、昆虫の能力に迫る番組である。
 昆虫愛に満ち満ちた香川さんが、民法のトーク番組で、カマキリの着ぐるみで登場、「カマキリ先生」に扮して昆虫に関する授業を行い、その中で「Eテレで昆虫番組をやるのが夢」と発言。それをたまたまNHKのプロデューサーが見ていて、ひょうたんから駒のように実現したというエピソードつきの番組だ。



 番組がスタートしたのは、もう2年も前のこと。
 第1回は2016年の10月で、数カ月に1回、不定期に放送されている。
 1時間目はトノサマバッタとクマゼミ。2時間目はモンシロチョウにタガメ。
 3時間目はオニヤンマで、2時間目と3時間目の間に、特別編「出動タガメ捜査一課」が放送された。

 私がこの番組に出会ったのは、昨年の暮れ。レギュラー番組が休止し、年末の特別な番組編成の一角に、この番組の再放送が組み込まれていたのである。1時間目と2時間目は見逃し、3時間目と特別編を見た。
 番組の半分は、カマキリ先生が野外に出て、実際にその昆虫を捕獲する場面だ。ヤラセは一切ないそうで、失敗する場面も全公開。

 3時間目はトンボ、その中でも最大で最強というオニヤンマを追う。どのくらい強いかというと、あの強力なスズメバチを捕食するという。逆ににスズメバチもオニヤンマを捕食するという。オニヤンマとスズメバチとは永遠のライバルであるという。こういう切り口もわくわくする。
 そして早速、カマキリ先生によるオニヤンマ捕獲作戦。トンボは、水があって森があるところにいる。オニヤンマはその中でもゆるやか流れの小川の周辺を飛んでいるという。

 「僕がとんぼなら、こういうところに住みたくなっちゃう」などといいながら、カマキリ先生は捕獲にとりくむが、最初のうちは失敗続きで、「初動が遅いんだよ」などと自分にダメ出し。
 「でも、オニヤンマはパトロール体質だから、絶対戻ってくる」と捕獲作戦変更。

 トンボはメスが稀少で、オスはいかにメスを獲得するかに命を懸けるという。オニヤンマのオスは小川を中央にした周回コースをとり、そこを高速(時速60㎞以上だという)でぐるぐるまわり、メスがやってくるのをひたすら待つという。
 カマキリ先生はそのコースの一角に陣取って待つことにしたのだ。
 そして、オニヤンマをつぎつぎと発見、あざやかな網さばきで捕獲していく。
 (3時間で9匹をゲット、これはすごいことらしい。ただし、全部オスだけ。)

 
 


 先生はつかまえたオニヤンマをカメラに近づけ、姿かたちがよくみえるようにする。
 


 番組ではさらにメスとオスのちがいや、大きなあごでハエを食べるところを画像で見せる。
 また、トンボの飛び方の特徴の一つであるホバーリングの観察もする。オスの周回コースに扇風機を置き、飛んでくるのを待つ。やってきたオスは、扇風機の回転音をメスの羽音と思い、近くまで来たところでホバーリングする。
 番組では、そのホバーリング中の羽の動きを微速度映像で見せる。4枚の羽根を別々に高速度回転させている。このような高度に複雑な飛行ができるのはトンボだけだという。
 下の写真は、少し見にくいが、ホバーリング中の羽の動きの微速度映像の1カット。

(と書いたら身近にいる映像制作者から、これは高速度撮影と言うんだとクレームがついた。それはわかっています。高速度で撮影したものを、目で見えるような微速度の映像にして見せているという意味で書いていると言っても、理解してもらえなかった。 
 ちょっと話が、番組からそれました。忘れてください。話を戻します。)





 帰りがけに、子どもの時からのあこがれだったギンヤンマを見つけてしまったカマキリ先生、その捕獲を試みる。
 オニヤンマ以上に速い時速70㎞以上で飛び、しかも急旋回するというギンヤンマ、今まで一度も捕まえたことのないギンヤンマ。それを後ろからねらって見事ゲットし、興奮するカマキリ先生。



 そして圧巻は、カマキリ先生が、昆虫の能力を自分のからだで感じてみようという実験だ。この企画は、毎回あるらしく、この回の場合は、ギンヤンマが飛ぶ時速70㎞と急旋回の体感だ。
 時速70㎞で車を走らせ(運転手はスタントドライバー)、そのスピードのまま急旋回する。
 からだにGがかかる。前方の景色がものすごいスピードで展開する。眼がついていけない。身体がついていけない。

 つぎに体感するのは、ギンヤンマの捕獲能力。時速70㎞で飛びつつ虫をキャッチする。
 カマキリ先生を70㎞で飛ばすことはできないので、クレーンでつり上げたかマキリ先生めがけて、時速70㎞の速度でバレーボールを飛ばす。何回目かに受け止めたカマキリ先生、受けられるかどうかは方向がカギという。しかし、トンボは自ら飛んでいる虫に向かって行き、捕獲するのだ。やはりトンボはすごい。

 番組の最後は、カマキリ先生の熱いメッセージで終わる。
  「トンボは自分の力だけで時速70㎞で飛ぶのだ!」
  「君たちもギンヤンマのように飛びたいと思わないか!」
  「君たちも羽を持っているはずだ。羽があるのに飛ばないやつはだめだ!」
  「飛んでください!」

 何かを覚える番組ではない。
 知らなかった昆虫たちの生態に興味をもち、その能力に驚き、昆虫たちに尊敬の念すら生み出す。そしてほかの昆虫たちはどうなんだろうと、興味がわく。不思議な番組だ。
 「昆虫を学ぶ」のではなく、「昆虫から」学ぶのだ。
 
 番組は、今後も続くらしい。この夏にもやったらしい。
 私は見逃してしまったが、きっとまた再放送でやるだろう。

★3時間目、オニヤンマの回は、下記のURLで見ることができる。(削除されなければ)