人の話を聞いて「わかった」というのは、「わかったと思った」というだけのことが多い。
話がわかるというのは、話で使われている言葉がわかるということではない。もちろん言葉の意味がわからなければ、話はわからないのであるが、話の内容が本当にわかるということのためには、もっと多くのものを必要とする。 話の内容というのは、世の中の事実であったり、自然の事実であったりする。また、話をしている人の経験であったりする。話をする人は、その事実を見たり経験したりしたことから感じたこと考えたことを、自分の論理でまた自分の言葉で語っている。話を聞くというのは、その結果を受け取っているということである。
話が本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じまた考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。聞き手が話し手と同様に感じたり考えたりすることができるには、話し手と同等もしくはそれに近い行動経験や論理を組み立てた経験がなければならない。なぜならば、感じることや論理を組み立てることは、そうしたことを経験することによって,脳の行動回路に蓄積されていく能力だからである。
したがって、教師が、自分より経験が少なく論理力思考力が未熟な生徒や学生に、感じたり考えたりする材料や経験する場をつくらず、学習させる内容を講義による説明だけで済ませるということは、行動形成の意味からはほとんど意味がない。
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