●二つの事例
≪ 事例1 ≫
K大学医学部看護学科、卒業直前、これから看護の現場に出て行く学生たちに、「採血」の予行演習をさせた。2年生のときにしっかりと教えたはずだった。ところが、針のサイズも覚えていないし、正しい持ち方もできない。自信を持って採血できるという学生が、殆どいない。教師たちは愕然とし、残り少なくなった時間の中で、特訓したという。
≪ 事例2 ≫
一方、T看護短期大学の採血の学習。じっくり時間をかけて学生自身で正しい針の選択と、正しい持ち方を見いださせる。いろいろな太さを針を見る。腕のシミュレータを使って血管の太さを調べて比較してみる。針を紙に刺してみて、針の太さによるあいた穴の大きさの違いを見る。グリセリンを加えて血液の粘度に近くした液をつくり、いろいろな太さの針で吸い込ませ、吸い込みやすさを比較する。そして、腕の動脈からの採血にふさわしい針を選ばせる。針の持ち方についての学習も同様に、自分でいろいろ調べさせ、試行錯誤させ、しっかり固定できる持ち方のポイントを発見させる。教師は答えを教えない。調べ方のアドバイスをしたり、モデル行動をして観察の対象になったりするだけだ。
他校のように、針のサイズ・持ち方を教師が説明して教え、それを練習させれば、半分以下の時間で学習が終る。なぜ時間をかけて針の選び方,持ち方を探究させるのか。担当していた教授は言う。教師が説明して教えていたときは、その時間内の学習では出来るようになっていても、時間がたつと学生は針のサイズや持ち方を忘れてしまうことが多かった。ところが、この学習方式にしてからは、忘れなくなった。日頃は意識していなくても、その状況に出会えば対象を測定し判断して、自分で正しい針を選択し、正しい持ち方で採血することができるようになったというのである。
●脳の回路を使うほど、そして関連するものが多いほど、確かな記憶となる
針のサイズや、注射器の持ち方(手の形,指の角度)を教科書で見たり、教師に教えてもらって覚えるというのは、「伝達―受容」型の意味記憶。この意味記憶の場合は、他人の判断の結果をただ受け取るだけで、脳の活動は単純であるから、脳の回路の使われ方が非常に少ない。したがって記憶の量も少ない。
自分が行動したことを覚えるという記憶のしかたを、経験記憶という。脳は、行動したことは全部経験記憶として蓄積していく。成功したことはもちろん、失敗したことも全て記憶していく。見るだけ聞くだけの場合の脳の使い方(意味記憶)に比べると、自分で調べ、試行錯誤させる学習のさせ方は、そのことに関する脳の回路への刺激の量が格段に多い。さまざまな行動の対象の測定、判断、針の選択や正しい針の持ち方や操作を見出すための試行錯誤、そのときどきで使った脳の回路、それらが複雑に関連している。単純な記憶は、忘れやすいが、複雑に関連した経験記憶は忘れにくい。回路の連関として記憶が形成されるからである。
加えて、自分で法則をみつけたものは忘れにくい、ということがある。そのときの感動が加わって、強い刺激として脳の回路に残っているからである。感情が絡むと強い記憶となる。感情を司る扁桃体が、海馬に必要な情報として記憶するよう指令を出すと考えられている。
●学習時間と学習の効果
T看護短期大学のような学習は、一般的には、時間がかかるというので敬遠されている。しかし、教えても覚えていない教育にかける時間の方が無駄なのではないか。学習にかける時間は、単に所要時間だけを問題にするのではなく、学習者の脳の回路をしっかりつくるという観点から、考え直すべきではないか。
「行動の単純化が脳の働きを衰えさせる」「教えない方が選手はのびる「ビールは23歳で好きになる」・・・・・人間には、本来持っている学習のしかたがあります。脳が新しいことを学習するメカニズムのことです。JADEC(能力開発工学センター)では、人間の行動を脳の働き方という視点から分析し、そこから学習のあり方を考えます。
2007/09/11
13 試行錯誤の脳行動学的意味
12 「木と相談してやりなはれ」
昭和9年(1924)から50年にわたる法隆寺昭和の大修理の棟梁であった名工、日本一の宮大工と称された西岡常一さんは、
「人に聞いたことはすぐ忘れる。大事なことは木と相談してやりなはれ」
と言って弟子を育ててきたという。木の使い場所の条件を調べ、木の状態を観察し、自分自身で判断してやれということである。人の判断の結果を聞いてもそれはすぐ忘れる、そして次の自分の判断材料とはならないということである。試行錯誤するということが、学習上重要な意味を持つということである。
このことは、脳行動学でも重要なポイントである。自覚的・探究的に行動してきた人間の脳のネットワークは、情報を分類整理しながら、関連付けながらつくられていく。それらの記憶を条件に応じて組合せることによって、応用も利くし、新しいことも生み出せるのである。
それにしても、その道の達人は、人間の行動を見ることにおいても達人なのだと感心させられる。
「人に聞いたことはすぐ忘れる。大事なことは木と相談してやりなはれ」
と言って弟子を育ててきたという。木の使い場所の条件を調べ、木の状態を観察し、自分自身で判断してやれということである。人の判断の結果を聞いてもそれはすぐ忘れる、そして次の自分の判断材料とはならないということである。試行錯誤するということが、学習上重要な意味を持つということである。
このことは、脳行動学でも重要なポイントである。自覚的・探究的に行動してきた人間の脳のネットワークは、情報を分類整理しながら、関連付けながらつくられていく。それらの記憶を条件に応じて組合せることによって、応用も利くし、新しいことも生み出せるのである。
それにしても、その道の達人は、人間の行動を見ることにおいても達人なのだと感心させられる。
11 「頭を良くする」ということはどういうことか
「頭を良くする」ということは、脳の「分類-組み合わせ」の能力をみがくということである。脳は、行動経験したことを記憶していくというのがその基本のシステムである。そして、その記憶を分類し関係づけるということをしている。経験の記憶は、経験しただけある。それがどんどん分類整理されつながっていけば、脳の働きは爆発的によくなっていくと、脳学者は言う。つまり、「頭を良くする」というのは、脳に「分類-組み合わせ」型の働きをさせるようにするということである。
しかし、これには条件がある。それは、脳本来の働き方をさまたげない、もっといえばそれを助ける行動のしかた・学習のしかたをするということである。「分類-組み合わせ」型の行動をすればもっと効果的だということである。学習する内容を自身で調べ、視点を立てて分類し、整理するというような学習をするということである。教科書を暗記したり、教師の話をただおとなしく聞いたり、ということではないということである。
しかし、これには条件がある。それは、脳本来の働き方をさまたげない、もっといえばそれを助ける行動のしかた・学習のしかたをするということである。「分類-組み合わせ」型の行動をすればもっと効果的だということである。学習する内容を自身で調べ、視点を立てて分類し、整理するというような学習をするということである。教科書を暗記したり、教師の話をただおとなしく聞いたり、ということではないということである。
10 脳は、単純記憶が苦手
「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」とか「イヤーロッパ(1868) さん、明治だね」などと、いろいろな意味をつけて年号などを覚える工夫をした経験を誰しも持っているだろう。脳は、単純記憶は苦手で、何の意味もない数や文字の羅列を覚えるのは苦手なのである。
脳の基本的な働き方は、分類してそれを組み合わせるという働き方である。人間は、ごく幼いときは単純記憶が得意であるというが、それは脳学者に言わせれば、得意というよりそういう記憶のしかたしかできないからだという。分類がまだできないのである。成長するにしたがって、脳の働き方はどんどん「分類-組み合わせ」型に移行していく。
脳には、得意なことと不得意なことがある、ということである。教育者は、こういう脳の働きの特質を考えて、教育を行われなければならない。学習者も、学習のしかたを工夫する必要がある。
脳の基本的な働き方は、分類してそれを組み合わせるという働き方である。人間は、ごく幼いときは単純記憶が得意であるというが、それは脳学者に言わせれば、得意というよりそういう記憶のしかたしかできないからだという。分類がまだできないのである。成長するにしたがって、脳の働き方はどんどん「分類-組み合わせ」型に移行していく。
脳には、得意なことと不得意なことがある、ということである。教育者は、こういう脳の働きの特質を考えて、教育を行われなければならない。学習者も、学習のしかたを工夫する必要がある。
2007/08/03
9 グループ学習の脳行動学的意味
脳の学習の原則は、「行動をしたことを学習する」ということ。 行動したときに起きた「脳の神経細胞間の刺激の連絡関係の状態」が残ったものが記憶である。その記憶が蓄積され、関連づけられ、組み合わせられていくことによって、人間は様々なことが理解できるようになるし、新しい行動を生み出していくことができる。そうした脳の学習のしかたと働き方に対して、グループ学習はどのような意味をもっているのだろうか。
●主体的活動が主体的姿勢を育てる
グループ学習の一斉学習との最も大きな違いは、学習活動を学習者が主体的に進めるということである。主体的な行動を積み重ねることによって、主体的な行動姿勢が育っていく。活動がうまくいった場合とそうでない場合とでは違いがあるが、それでも一斉学習に比較すれば格段の差である。
一斉学習ではその展開の条件から、教師が主導することが多く受動的な学習活動が多くなる。受動的な行動を続ければ、脳は受動的な行動のしかたを学び続けることになる。小学校から大学まで講義中心の一斉学習方式で育てられてきた日本人が、主体的な行動力が不足している理由はここにある。
●脳の働き方が多様である
脳は、他への働きかけが多いほど活性化し、複雑な働き方をするほど発達する。
多人数の一斉学習では、多くの場合20%程度(30~40人クラスなら6~8人)の反応で授業が進められていく。残りの学習者が主体的に活動せず、教師の話をただ聞いているだけでも授業は進んでいき、その場合の学習者の脳の働き方は非常に単調でしかも少ない。
一方、グループ学習は生徒相互間の共同関係を意図した学習であるから、1つの課題に生徒たち自身が共同して取り組むという形がとられる。調査や実験をして,その結果をまとめ、表現する、といった多様で複雑な学習活動になり、グループが少人数であるほど各自が行う行動の種類と機会とが多くなる。
●共同することで脳が育つ-分類し総合する力,人間関係力
一つの課題を共同して行うには、分担,総合,協力といった活動が必要になる。分担し総合する過程では、全体をとらえる行動、要素に分ける行動、それらの関係を整理する行動などが行われる。これらはものごとを構造的に見るという行動であるが、これにより、脳はものごとを構造的にとらえることを経験する。
また、具体的に行動実施するためには、コミュニケーションが欠かせない。それは言葉だけのコミュニケーションではなく、自分や相手の行動とともにあり、行動を成立させるためのコミュニケーション行動である。どのように共同するか、分担するか。それぞれが調べたことをどうまとめるか。自分の考えを相手にわかりやすく伝える、相手の話を聞き(聞き出し)考えていることを読み取る。意見が異なる場合いはそれを調整することも必要になる。互いに仲間の発言や行動を観察し、意図するところを読み取り、協力の仕方やそのタイミングを計らなければならない。
そうした行動の中で学習者は、試行錯誤しながら全体の中での個のありかた、個の総合としての全体のあり方を経験していくことになる。そして、経験したことを、脳は学習する。多人数での一斉学習の場合でもこうした行動がないわけではないが、数人が発言してあとは多数決で決めたり、誰かが代表で実験や発表をし、残りはそれを観察するというような形になったりして、学習者それぞれの行動の量と質はグループ学習に遠く及ばない。
●教え合うことで、理解が深まる― 記憶の再構成,問題意識に位置づいた学習活動
グループ学習における「教え合う」という行動が、内容の理解を互いに深めあうという効果があるとして、今注目されている。(「教え合い」を特に意図したグループ学習を「協調学習」という名で呼んでいる。)
「教える」ということは、相手の疑問に応じて、自分のとらえていることを伝え、理解させることである。そのためには、相手がどう考えているのか、何がわからないのか、をつかまなくてはならない。その上で自分がとらえていることや理解の土台になっていることを整理し、相手が理解できるやさしい言葉と論理で説明しなくてはならない。相手の状況によって事例を示したり、具体物を使ったりして説明しなくてはならない。(その過程は、より本質的な理解と具体的なとらえ方が必要であることや、しばしば自分もよくわかっていないということを自覚する場ともなる。)
説明を受ける側は、教えてもらった内容と自分がとらえている内容とを比較し、抜けている部分違っている部分を修正していく。この過程で、教える側教えられる側、双方の脳の記憶は何度も繰り返し引き出され、関係付けられ、再構成される。それだけ脳の神経回路が働くということである。脳の神経回路は働くほどその働きがアップする。反応しやすくなる。
また、この「教え合う」という行動は、教師から一方的に与えられるものではなく、自分たちの疑問や問題意識にあわせて行われるということが、脳が働きやすい条件にもなっている。自分たちが行動した結果(実験結果や、調べたこと)や、目の前の具体的な事実や教材を材料として行われるため、記憶情報がネットワーク化(関連づけ)されやすいのである。忘れにくい、確かな記憶になるということである。
●チャレンジする力を育てる
難しい課題に挑戦できないのはほとんどの場合、失敗に対する恐れのためである。しかし、1人ではできないそうもない気が重くなるようなことも、3人4人と仲間がいれば何とかなるかもと第1歩が踏み出せる。がんばればやれそうだと感じたとき、脳は最も活性化する。グループそのものに脳を活性化する条件が備わっていると言ってもよいかもしれない。
グループで取り組む場合、失敗しても仲間で痛みを分け合うことができる。もう1回やってみようと励まし合う。なかなかアイディアが出なくて苦しいとき、1人がへこたれても、別の誰かが頑張ってやる。その頑張りを見て自分もやるぞという気になる。チャレンジするエネルギーが出てくる。
この学習過程がよい、とグループ学習を体験した学習者たちは言う。苦労しても、教えられるのではなく、自分たちの力で掴み取っていくというところに充実感があり、だんだん面白くなっていく。チャレンジすることの面白さ、楽しさをつかめば、脳はそのことを避けることはしなくなる。脳は、本質的に自分にとって好ましい方向に働こうとする。それは生存のための本能だからである。
チャレンジすることで、チャレンジ精神は育っていく。グループでの課題挑戦は、個々のチャレンジ精神をも高めることになっていく。
●経験の共有,感情の共有
グループ学習では、学習者たちが同じ経験を共有することになる。その同じ経験を土台に考えることになるので、互いの意図するところが理解しやすい。
また、単なる経験だけではなく、それに伴う感情を共有する。感情は行動したときに起こる脳の働きの1つである。同じような経験をしていないと、言葉でいくら説明しても本当には理解できない。「グループ学習は楽しい」と学習者は言う。集まってわいわいやるから楽しいという意味ではない。苦労しても、つらい学習であっても、いや、だからこそ楽しいというのである。学習活動を進めていくための苦労や、失敗による挫折感、そして成功の喜び。失敗を克服することができれば、失敗せずにできたときより嬉しい。そのときの苦労や喜びを分かり合える、語り合える仲間がいるということが大きな喜びとなる。
●グループ学習を進めていく力は、グループ学習の中で育てる
グループ学習の効果は大変大きい。学習内容を理解するという面は言うまでもなく、社会の中で行動していくための力 (主体的行動力、コミュニケーション力,人間関係力,チャレンジ精神etc.)を磨くという意味からは、まさに不可欠な学習活動のしかたといえよう。
しかし、グループ学習は最初からなかなかうまくはできない。グループにしさえすればグループ活動が成立する、というわけではないのである。なかなかうまくできないから講義式でやる、その方が早く進む、という指導者がいるが、それは間違いである。進んでいるのは指導者であって学習者ではない。学習者をいかに行動させ、行動のしかたをその脳の中に成立させていくかということが、学習の目標にならなければならない。
グループ活動がうまくできないからこそ、グループ学習をさせなくてはならない。グループ活動は、グループ学習の中でその行動のしかたを練習し修正していくことによってしか、できるようにならない。目標行動の提示の仕方や教材の作り方の工夫、アドバイスやヒントの出し方、そこに指導者の力が発揮されなくてはならない。
●主体的活動が主体的姿勢を育てる
グループ学習の一斉学習との最も大きな違いは、学習活動を学習者が主体的に進めるということである。主体的な行動を積み重ねることによって、主体的な行動姿勢が育っていく。活動がうまくいった場合とそうでない場合とでは違いがあるが、それでも一斉学習に比較すれば格段の差である。
一斉学習ではその展開の条件から、教師が主導することが多く受動的な学習活動が多くなる。受動的な行動を続ければ、脳は受動的な行動のしかたを学び続けることになる。小学校から大学まで講義中心の一斉学習方式で育てられてきた日本人が、主体的な行動力が不足している理由はここにある。
●脳の働き方が多様である
脳は、他への働きかけが多いほど活性化し、複雑な働き方をするほど発達する。
多人数の一斉学習では、多くの場合20%程度(30~40人クラスなら6~8人)の反応で授業が進められていく。残りの学習者が主体的に活動せず、教師の話をただ聞いているだけでも授業は進んでいき、その場合の学習者の脳の働き方は非常に単調でしかも少ない。
一方、グループ学習は生徒相互間の共同関係を意図した学習であるから、1つの課題に生徒たち自身が共同して取り組むという形がとられる。調査や実験をして,その結果をまとめ、表現する、といった多様で複雑な学習活動になり、グループが少人数であるほど各自が行う行動の種類と機会とが多くなる。
●共同することで脳が育つ-分類し総合する力,人間関係力
一つの課題を共同して行うには、分担,総合,協力といった活動が必要になる。分担し総合する過程では、全体をとらえる行動、要素に分ける行動、それらの関係を整理する行動などが行われる。これらはものごとを構造的に見るという行動であるが、これにより、脳はものごとを構造的にとらえることを経験する。
また、具体的に行動実施するためには、コミュニケーションが欠かせない。それは言葉だけのコミュニケーションではなく、自分や相手の行動とともにあり、行動を成立させるためのコミュニケーション行動である。どのように共同するか、分担するか。それぞれが調べたことをどうまとめるか。自分の考えを相手にわかりやすく伝える、相手の話を聞き(聞き出し)考えていることを読み取る。意見が異なる場合いはそれを調整することも必要になる。互いに仲間の発言や行動を観察し、意図するところを読み取り、協力の仕方やそのタイミングを計らなければならない。
そうした行動の中で学習者は、試行錯誤しながら全体の中での個のありかた、個の総合としての全体のあり方を経験していくことになる。そして、経験したことを、脳は学習する。多人数での一斉学習の場合でもこうした行動がないわけではないが、数人が発言してあとは多数決で決めたり、誰かが代表で実験や発表をし、残りはそれを観察するというような形になったりして、学習者それぞれの行動の量と質はグループ学習に遠く及ばない。
●教え合うことで、理解が深まる― 記憶の再構成,問題意識に位置づいた学習活動
グループ学習における「教え合う」という行動が、内容の理解を互いに深めあうという効果があるとして、今注目されている。(「教え合い」を特に意図したグループ学習を「協調学習」という名で呼んでいる。)
「教える」ということは、相手の疑問に応じて、自分のとらえていることを伝え、理解させることである。そのためには、相手がどう考えているのか、何がわからないのか、をつかまなくてはならない。その上で自分がとらえていることや理解の土台になっていることを整理し、相手が理解できるやさしい言葉と論理で説明しなくてはならない。相手の状況によって事例を示したり、具体物を使ったりして説明しなくてはならない。(その過程は、より本質的な理解と具体的なとらえ方が必要であることや、しばしば自分もよくわかっていないということを自覚する場ともなる。)
説明を受ける側は、教えてもらった内容と自分がとらえている内容とを比較し、抜けている部分違っている部分を修正していく。この過程で、教える側教えられる側、双方の脳の記憶は何度も繰り返し引き出され、関係付けられ、再構成される。それだけ脳の神経回路が働くということである。脳の神経回路は働くほどその働きがアップする。反応しやすくなる。
また、この「教え合う」という行動は、教師から一方的に与えられるものではなく、自分たちの疑問や問題意識にあわせて行われるということが、脳が働きやすい条件にもなっている。自分たちが行動した結果(実験結果や、調べたこと)や、目の前の具体的な事実や教材を材料として行われるため、記憶情報がネットワーク化(関連づけ)されやすいのである。忘れにくい、確かな記憶になるということである。
●チャレンジする力を育てる
難しい課題に挑戦できないのはほとんどの場合、失敗に対する恐れのためである。しかし、1人ではできないそうもない気が重くなるようなことも、3人4人と仲間がいれば何とかなるかもと第1歩が踏み出せる。がんばればやれそうだと感じたとき、脳は最も活性化する。グループそのものに脳を活性化する条件が備わっていると言ってもよいかもしれない。
グループで取り組む場合、失敗しても仲間で痛みを分け合うことができる。もう1回やってみようと励まし合う。なかなかアイディアが出なくて苦しいとき、1人がへこたれても、別の誰かが頑張ってやる。その頑張りを見て自分もやるぞという気になる。チャレンジするエネルギーが出てくる。
この学習過程がよい、とグループ学習を体験した学習者たちは言う。苦労しても、教えられるのではなく、自分たちの力で掴み取っていくというところに充実感があり、だんだん面白くなっていく。チャレンジすることの面白さ、楽しさをつかめば、脳はそのことを避けることはしなくなる。脳は、本質的に自分にとって好ましい方向に働こうとする。それは生存のための本能だからである。
チャレンジすることで、チャレンジ精神は育っていく。グループでの課題挑戦は、個々のチャレンジ精神をも高めることになっていく。
●経験の共有,感情の共有
グループ学習では、学習者たちが同じ経験を共有することになる。その同じ経験を土台に考えることになるので、互いの意図するところが理解しやすい。
また、単なる経験だけではなく、それに伴う感情を共有する。感情は行動したときに起こる脳の働きの1つである。同じような経験をしていないと、言葉でいくら説明しても本当には理解できない。「グループ学習は楽しい」と学習者は言う。集まってわいわいやるから楽しいという意味ではない。苦労しても、つらい学習であっても、いや、だからこそ楽しいというのである。学習活動を進めていくための苦労や、失敗による挫折感、そして成功の喜び。失敗を克服することができれば、失敗せずにできたときより嬉しい。そのときの苦労や喜びを分かり合える、語り合える仲間がいるということが大きな喜びとなる。
●グループ学習を進めていく力は、グループ学習の中で育てる
グループ学習の効果は大変大きい。学習内容を理解するという面は言うまでもなく、社会の中で行動していくための力 (主体的行動力、コミュニケーション力,人間関係力,チャレンジ精神etc.)を磨くという意味からは、まさに不可欠な学習活動のしかたといえよう。
しかし、グループ学習は最初からなかなかうまくはできない。グループにしさえすればグループ活動が成立する、というわけではないのである。なかなかうまくできないから講義式でやる、その方が早く進む、という指導者がいるが、それは間違いである。進んでいるのは指導者であって学習者ではない。学習者をいかに行動させ、行動のしかたをその脳の中に成立させていくかということが、学習の目標にならなければならない。
グループ活動がうまくできないからこそ、グループ学習をさせなくてはならない。グループ活動は、グループ学習の中でその行動のしかたを練習し修正していくことによってしか、できるようにならない。目標行動の提示の仕方や教材の作り方の工夫、アドバイスやヒントの出し方、そこに指導者の力が発揮されなくてはならない。
8 長く見る,じっと見る
NHK総合TVに「課外授業ようこそ先輩」という番組がある。各地の小学校の6年生1クラスに、いろいろな分野で活躍しているその小学校を卒業した先輩が授業をする様子を描くドキュメンタリー番組である。06年4月、その日の先輩はアートディレクターの長友啓典さん。アートディレクターとはひと言で言うなら広告制作の現場監督。伊集院静の小説の挿絵や装丁、各種広告制作で活躍している人である。後輩は大阪市常盤小学校の6年生。
長友さんの子どもたちへ課題は、長友さんが準備してきた「TOKIWA」のロゴ入り用紙を使ってのポスター制作。常盤小学校と常盤小学校に通っている自分たち、そして常盤小学校がある町、それをアピールするポスターの制作である。この課題の中で、長友さんが子どもたちの心に、表現したいことを沸き上がらさせていくプロセスをカメラが追う。
長友さんは授業開始後すぐさま子どもたちを通学路に連れ出す。そして、どこか気になるところを1か所選んで10分間見続けるようにと言う。ぼんやり見るのではなくじっと見る。そのうち心に浮かんできたことがあったら、それを文字に書く。絵は描かない。書いていいのは文字だけである。
子どもたちは始め戸惑っている。何を見たらよいのかわからない。どう見たらよいのかわからない。とにかくじっと見ているように言われ、見続ける。しかしそのうち、子どもたちの心にはいろいろな思いがわきあがってくる。見えてくるものがある。
「何を見ているの?」「どうしてここを選んだの?」 長友さんはその様子を観察しながら子どもたちに質問する。
「道路にひびが入っている。古い道なんだなーって思った。」
「この細い道の向うに私の家がある。だから大好きなの。」
「このお店(床屋)ずいぶん長いことあるなあ。くるくる回る三色の看板、古いけどおしゃれな感じ。」
「ここに来るといつもおいしい(パンの)匂いがするんだ」
「緑が多くて静かだから、大好きな道。でも今は、工事中で通れないので悔しい。」
毎日一瞬で通り過ぎていく場所を、長く見る、じっと見ることで、他との違いを発見し、自分の思いに気づき、以前の経験が引き出され、そして新たな発見をする。教室に戻った子どもたちは、メモをもとにわが通学路をポスターとして描き始める。
「その絵においしい匂いが表現できない?」「通れなくて悔しいという気持ちを表してごらん」長友さんの言葉に刺激され、子どもたちはそれぞれ自分の心にわきあがった思いを表現していく。街角の上空に浮かんだクロワッサン、緑の小道の入口に立てられた「工事中立入禁止」の看板、光輝く町へと続く細い道、画面3分の1もの大きさで鮮やかに描かれた理髪店の3色ポール・・・・・・。 「絵って自分の気持ちを表現するものなんだね。今まで絵はきらいだったけど、好きになった。」しみじみと子どもが感想を述べる。
じっと見る。同じ「見る」でも、「ちらっと見る」ということと、「長く集中して見る」ということでは、脳にとっての刺激の質が違う。強い刺激とも違う、長い刺激。脳学者の茂木健一郎氏は「脳は忙しいと考えられない」と言う。脳の中のネットワークに信号が伝わりいろいろ活動するには時間が必要なのだそうだ。同じものを長く見るというのは、その刺激を材料として考える時間を十分に脳に与える、ということなのであろう。
そして、見たことをすぐに絵に描かないで、言葉でメモするということの意味。絵を描くことと、言葉で表現するということとは、脳としての活動のしかたが違う。見たことをすぐ絵に描くと、単なる写生になってしまうことが多い。脳の働きが、目からの情報と手を動かし絵を描く行動を関係づけることに向かうからである。しかし、見たことを言葉でメモをすると、それによって感情やイメージが大きく深く膨らむ。われわれは生活の中で、言葉を使って考えや感情を整理してきているからである。
長い刺激は思考を深める。しかし「ちらっ」という見方では脳が働かないかというと、そうではない。ちらっと見るという刺激で働く働き方も、脳にはある。また、1ヵ所だけをじっと見ていたのでは見えない、大きな広がりをざっと見ているからこそ見える、比較するから見えるということもある。毎日自転車で行く通勤路。1ヵ所1ヵ所は一瞬で通り過ぎていくが、その積み重ねで見えてくるものがある。雑草の種類と分布、花の開花と温度や日照の関係、道行く中学生高校生の歩き方や服装に見えるそれぞれの学校の指導力・・・、まだまだいくらでもある。
脳は、刺激の与え方でいろいろな活動のしかたをするということだ。 刺激の与え方と脳の働き方,働かせ方。そういう視点から学習のしかた(させ方)、行動のしかた(させ方)を見直してみるということが必要ではないか。
長友さんの子どもたちへ課題は、長友さんが準備してきた「TOKIWA」のロゴ入り用紙を使ってのポスター制作。常盤小学校と常盤小学校に通っている自分たち、そして常盤小学校がある町、それをアピールするポスターの制作である。この課題の中で、長友さんが子どもたちの心に、表現したいことを沸き上がらさせていくプロセスをカメラが追う。
長友さんは授業開始後すぐさま子どもたちを通学路に連れ出す。そして、どこか気になるところを1か所選んで10分間見続けるようにと言う。ぼんやり見るのではなくじっと見る。そのうち心に浮かんできたことがあったら、それを文字に書く。絵は描かない。書いていいのは文字だけである。
子どもたちは始め戸惑っている。何を見たらよいのかわからない。どう見たらよいのかわからない。とにかくじっと見ているように言われ、見続ける。しかしそのうち、子どもたちの心にはいろいろな思いがわきあがってくる。見えてくるものがある。
「何を見ているの?」「どうしてここを選んだの?」 長友さんはその様子を観察しながら子どもたちに質問する。
「道路にひびが入っている。古い道なんだなーって思った。」
「この細い道の向うに私の家がある。だから大好きなの。」
「このお店(床屋)ずいぶん長いことあるなあ。くるくる回る三色の看板、古いけどおしゃれな感じ。」
「ここに来るといつもおいしい(パンの)匂いがするんだ」
「緑が多くて静かだから、大好きな道。でも今は、工事中で通れないので悔しい。」
毎日一瞬で通り過ぎていく場所を、長く見る、じっと見ることで、他との違いを発見し、自分の思いに気づき、以前の経験が引き出され、そして新たな発見をする。教室に戻った子どもたちは、メモをもとにわが通学路をポスターとして描き始める。
「その絵においしい匂いが表現できない?」「通れなくて悔しいという気持ちを表してごらん」長友さんの言葉に刺激され、子どもたちはそれぞれ自分の心にわきあがった思いを表現していく。街角の上空に浮かんだクロワッサン、緑の小道の入口に立てられた「工事中立入禁止」の看板、光輝く町へと続く細い道、画面3分の1もの大きさで鮮やかに描かれた理髪店の3色ポール・・・・・・。 「絵って自分の気持ちを表現するものなんだね。今まで絵はきらいだったけど、好きになった。」しみじみと子どもが感想を述べる。
じっと見る。同じ「見る」でも、「ちらっと見る」ということと、「長く集中して見る」ということでは、脳にとっての刺激の質が違う。強い刺激とも違う、長い刺激。脳学者の茂木健一郎氏は「脳は忙しいと考えられない」と言う。脳の中のネットワークに信号が伝わりいろいろ活動するには時間が必要なのだそうだ。同じものを長く見るというのは、その刺激を材料として考える時間を十分に脳に与える、ということなのであろう。
そして、見たことをすぐに絵に描かないで、言葉でメモするということの意味。絵を描くことと、言葉で表現するということとは、脳としての活動のしかたが違う。見たことをすぐ絵に描くと、単なる写生になってしまうことが多い。脳の働きが、目からの情報と手を動かし絵を描く行動を関係づけることに向かうからである。しかし、見たことを言葉でメモをすると、それによって感情やイメージが大きく深く膨らむ。われわれは生活の中で、言葉を使って考えや感情を整理してきているからである。
長い刺激は思考を深める。しかし「ちらっ」という見方では脳が働かないかというと、そうではない。ちらっと見るという刺激で働く働き方も、脳にはある。また、1ヵ所だけをじっと見ていたのでは見えない、大きな広がりをざっと見ているからこそ見える、比較するから見えるということもある。毎日自転車で行く通勤路。1ヵ所1ヵ所は一瞬で通り過ぎていくが、その積み重ねで見えてくるものがある。雑草の種類と分布、花の開花と温度や日照の関係、道行く中学生高校生の歩き方や服装に見えるそれぞれの学校の指導力・・・、まだまだいくらでもある。
脳は、刺激の与え方でいろいろな活動のしかたをするということだ。 刺激の与え方と脳の働き方,働かせ方。そういう視点から学習のしかた(させ方)、行動のしかた(させ方)を見直してみるということが必要ではないか。
2007/05/16
7 20%の授業
■50年前の授業調査
昭和25年、国立教育研究所が全国小中学校教育課程調査の一環として授業研究を行った。1時間の授業における教師の活動、生徒の活動を克明に観察し記録をとった。教師がどういう教材を提示し、どういう説明をし、黒板には何を書き、どういう質問をしたか。どういう行動を指示したか。生徒は誰々が手を上げて、そのうち何人がどんなことを言ったか。その答えを教師はどういうふうに整理をしたか。また、教師の指示に対して生徒はどういう行動をとり、教師はそれに対してどう指導したか。そのプロセスをずっと分析していって、学習目標の立てかたや授業の展開のしかた等における問題点を明らかにしていく、という研究をしたのである。
そうしたことを3~4年続けて、その中でわかってきたことがあった。全国のどの地域の、どのクラスにおいても、50数人の中で観察記録の表に出てくるのは、いつも10人程、つまり20%の生徒に過ぎないということだった。その10人の生徒は先生といろいろコミュニケーションをして反応がわかるが、あとの40人はわからない。
そこで、今度は残る40人が授業中どうしていたかを聞き取り調査をしたところ、「わかりきったことだから手を上げなかった」という生徒もいないわけではなかったが、そういうのはそう沢山はいない。「先生、何言ってんのかな」と思っているうちにA君が答えてしまった。どういうことだろうと考えているうちに、Bさんが何か言った。「それでいいのかな」と迷っているうちに次へ進んでしまった、というような生徒が相当いる。また、先生が言ったことがわからなくて考えているうちに、そのことが展開してさらに難しくなった。質問したいと思っていたが、そのタイミングを迷っているうちに先生の話はさらに次へ進んでしまったという生徒も少なくない。あれよあれよという間に45分間がすぎてしまった、そういう状態だったというのだ。
つまり、残りの40人、80%の生徒たちには、学習は成立していなかった。授業の45分間は、生徒たちの脳を働かせるための場になっていなかったということである。それから50年経った今、そうした状況はどれほど解決されているのだろうか。
■最近の授業状況
最近、小,中,高の18人の教師による計23授業を見る機会があった。公立が大半であるが、若干私立も含まれている。科目はいずれも理科。いずれも積極的に取り組んでいるという教師たちの授業である。昨今問題になっている子どもたちの理科離れ・理科嫌い解決の道を探るという意味からも、深い関心を持って授業を観察した。
1クラスの人数は22~39人、50年前の4割~6割とかなり少なくなっている。設備や教材も50年前とは大きく変わった。どの教室でもTVモニタや投影画像の見られるスクリーン、コンピュータが設置されており、TV放送、コンピュータを活用したデジタル教材、インターネットが活用できるようになっていた。そうした環境の中で展開された授業はどうであったか。
23授業のうちの4つの個別授業、5つの実験を中心とした授業を別として、14が一斉授業であった。授業展開の仕方は一斉授業の場合、どれも基本的には50年前と変わっていない。一言で言うなら教師主体の授業。教師が教科書や資料の内容を解説し、生徒がそれを聞く。教師がときどき生徒に質問し、理解度を確かめる。内容の区切り区切りで、何かわからないことはないかと生徒から質問を求める、といったふうである。そのうちの6授業は生徒個々になんらかのワークをさせたが、残りの7つの授業はなかった。ワークを行った6つの授業のうち、そのワークの結果を基にして展開されたものは3つであって、あとの3つは授業展開の途中で練習問題的にごく短時間行われたにすぎなかった。また、個々のワークの内容は、展開のための材料とされることが多く、生徒の疑問について個別に指導がなされたのは1授業にすぎなかった。
教師と生徒のコミュニケーションが活発に行われていた授業もあったが、よく調べてみると発言したり質問したりしている生徒の数が多いわけではない。同じ生徒が何回も発言していたり、教師が同じ生徒(確実に反応が返ってくる生徒)を何度も指名したりしているという例が多かった。整理すると、それぞれの授業で反応(内容に即したものに限定)した子どもは、各クラス2~6,7人。割合にすると10~20%。これを見た限りでは、50年後の今日でも、生徒ひとりひとり個別に学習が成立していると言うにはほど遠い状況である。( 私が親として12年の間に授業参観してきた40余の授業でも、この状況はほとんど同じようなものだった。)
■脳を働かせる授業へ
反応数の少なさ以外にも問題があった。一斉授業における生徒たちの主たる学習行動は、教師の話を聞くという受身の行動であるということだ。受身の行動というのは、脳を積極的に働かせない状況を作る。人間の脳は、働かせなくてもよい状態にしておくとすぐ休んでしまう。授業中の居眠りというのはそのひとつの形である。今回観察した中でも、内容が難しくなってきた中学校以上の授業では、何人もの居眠りをしている生徒が見られた。いずれも一斉授業のクラスで、最高は39人中11人であった。
また、教えられた結果を覚えるという行動では、脳を積極的に働かせないばかりか、21世紀を生きる人間としての必要な能力を身につけられない。自分の未来を切り開かなければならない21世紀の人間としての能力は、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案し、実行できる、そうした力でなければならない。教師の話を聞くというのが中心の授業では、そうした力は育てられない。脳の学習メカニズムは、経験したことを学習するというものだからである。つまり、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案する、そして実施して修正する、そうした過程を脳に経験させるように授業を設計しなおす必要があるということである。
「結果を教える教育」から「自分の頭で考える学習」に切り替えて、学力のみならず国際競争力も世界のトップに押し上げたフィンランドの学校教育改革が、そのことを証明しているのではないか。
昭和25年、国立教育研究所が全国小中学校教育課程調査の一環として授業研究を行った。1時間の授業における教師の活動、生徒の活動を克明に観察し記録をとった。教師がどういう教材を提示し、どういう説明をし、黒板には何を書き、どういう質問をしたか。どういう行動を指示したか。生徒は誰々が手を上げて、そのうち何人がどんなことを言ったか。その答えを教師はどういうふうに整理をしたか。また、教師の指示に対して生徒はどういう行動をとり、教師はそれに対してどう指導したか。そのプロセスをずっと分析していって、学習目標の立てかたや授業の展開のしかた等における問題点を明らかにしていく、という研究をしたのである。
そうしたことを3~4年続けて、その中でわかってきたことがあった。全国のどの地域の、どのクラスにおいても、50数人の中で観察記録の表に出てくるのは、いつも10人程、つまり20%の生徒に過ぎないということだった。その10人の生徒は先生といろいろコミュニケーションをして反応がわかるが、あとの40人はわからない。
そこで、今度は残る40人が授業中どうしていたかを聞き取り調査をしたところ、「わかりきったことだから手を上げなかった」という生徒もいないわけではなかったが、そういうのはそう沢山はいない。「先生、何言ってんのかな」と思っているうちにA君が答えてしまった。どういうことだろうと考えているうちに、Bさんが何か言った。「それでいいのかな」と迷っているうちに次へ進んでしまった、というような生徒が相当いる。また、先生が言ったことがわからなくて考えているうちに、そのことが展開してさらに難しくなった。質問したいと思っていたが、そのタイミングを迷っているうちに先生の話はさらに次へ進んでしまったという生徒も少なくない。あれよあれよという間に45分間がすぎてしまった、そういう状態だったというのだ。
つまり、残りの40人、80%の生徒たちには、学習は成立していなかった。授業の45分間は、生徒たちの脳を働かせるための場になっていなかったということである。それから50年経った今、そうした状況はどれほど解決されているのだろうか。
■最近の授業状況
最近、小,中,高の18人の教師による計23授業を見る機会があった。公立が大半であるが、若干私立も含まれている。科目はいずれも理科。いずれも積極的に取り組んでいるという教師たちの授業である。昨今問題になっている子どもたちの理科離れ・理科嫌い解決の道を探るという意味からも、深い関心を持って授業を観察した。
1クラスの人数は22~39人、50年前の4割~6割とかなり少なくなっている。設備や教材も50年前とは大きく変わった。どの教室でもTVモニタや投影画像の見られるスクリーン、コンピュータが設置されており、TV放送、コンピュータを活用したデジタル教材、インターネットが活用できるようになっていた。そうした環境の中で展開された授業はどうであったか。
23授業のうちの4つの個別授業、5つの実験を中心とした授業を別として、14が一斉授業であった。授業展開の仕方は一斉授業の場合、どれも基本的には50年前と変わっていない。一言で言うなら教師主体の授業。教師が教科書や資料の内容を解説し、生徒がそれを聞く。教師がときどき生徒に質問し、理解度を確かめる。内容の区切り区切りで、何かわからないことはないかと生徒から質問を求める、といったふうである。そのうちの6授業は生徒個々になんらかのワークをさせたが、残りの7つの授業はなかった。ワークを行った6つの授業のうち、そのワークの結果を基にして展開されたものは3つであって、あとの3つは授業展開の途中で練習問題的にごく短時間行われたにすぎなかった。また、個々のワークの内容は、展開のための材料とされることが多く、生徒の疑問について個別に指導がなされたのは1授業にすぎなかった。
教師と生徒のコミュニケーションが活発に行われていた授業もあったが、よく調べてみると発言したり質問したりしている生徒の数が多いわけではない。同じ生徒が何回も発言していたり、教師が同じ生徒(確実に反応が返ってくる生徒)を何度も指名したりしているという例が多かった。整理すると、それぞれの授業で反応(内容に即したものに限定)した子どもは、各クラス2~6,7人。割合にすると10~20%。これを見た限りでは、50年後の今日でも、生徒ひとりひとり個別に学習が成立していると言うにはほど遠い状況である。( 私が親として12年の間に授業参観してきた40余の授業でも、この状況はほとんど同じようなものだった。)
■脳を働かせる授業へ
反応数の少なさ以外にも問題があった。一斉授業における生徒たちの主たる学習行動は、教師の話を聞くという受身の行動であるということだ。受身の行動というのは、脳を積極的に働かせない状況を作る。人間の脳は、働かせなくてもよい状態にしておくとすぐ休んでしまう。授業中の居眠りというのはそのひとつの形である。今回観察した中でも、内容が難しくなってきた中学校以上の授業では、何人もの居眠りをしている生徒が見られた。いずれも一斉授業のクラスで、最高は39人中11人であった。
また、教えられた結果を覚えるという行動では、脳を積極的に働かせないばかりか、21世紀を生きる人間としての必要な能力を身につけられない。自分の未来を切り開かなければならない21世紀の人間としての能力は、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案し、実行できる、そうした力でなければならない。教師の話を聞くというのが中心の授業では、そうした力は育てられない。脳の学習メカニズムは、経験したことを学習するというものだからである。つまり、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案する、そして実施して修正する、そうした過程を脳に経験させるように授業を設計しなおす必要があるということである。
「結果を教える教育」から「自分の頭で考える学習」に切り替えて、学力のみならず国際競争力も世界のトップに押し上げたフィンランドの学校教育改革が、そのことを証明しているのではないか。
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