最後の例は、夜の地下鉄有楽町線でのこと。
◆座席に荷物を置き、間をあけて座る親子
平日の夜9時過ぎ、電車は仕事を終え家に帰ると思われる人々で込み合っていた。
その中で、間をあけて座ってはしゃいでいる2人の子どもの姿が見えた。
大きい方が小学生、小さい方が5才ぐらいだろうか。
ターミナル駅で私に前にいた乗客が降りたのでよく見ると、左端に母親らしい女性が座っており、右隣の2才ぐらいの眠っている子どもを抱え込んでいた。彼女もまた眠っているかのようだった。
座席は、一列大人8人掛け(少しくぼみがあって8人座ってくださいというメッセージが込められた)、真ん中にポールが立っており、両側4人ずつ座るようになっている。
その片側大人4人の席に、大人1人と小さな子どもが3人座っているのである。
当然席には余裕がある。
余裕どころか、確実におとなひとり分のスペースが空いている。
子どもたちは、そこに自分のリュックを置いていた。
◆小さくても1人分?
込み合っている車内で、大人の席に小さな子どもが一人ずつ。
空間があっても詰めずに、荷物を置いているなんていけないこと。
この子たちのためには注意すべき・・・
乗換駅が近づいていたので迷ったが、私は荷物をわきに置いていた子どもに言った。
「荷物をおひざの上に置きなさい。そうしたらもう一人座れますよ。」(ごくやさしくである。)
すると、眠っていたと思った母親が顔を上げて叫んだ。
「ここは4人分の席なんです!」
4人で4人分の席に座っているのだから席をゆずる必要はない、
1人分の席には大人子どもに関係なく1人ずつ座る権利があるという意味らしい。とんだ誤解だ。
しかし乗換駅についてドアが開いてしまったので、私は次の一言を言う間もなく電車を降りた。
振り返って車内を見たが、母子が席をゆずった様子はなく、電車は発車した。
座席に間をあけて座ったり荷物を置いたりする人が、残念ながら結構いる。
鉄道会社がある人数を想定して用意している席に、それより少ない人しか座っていないという例をしばしば見かける。
そこで鉄道会社が考えたのが、真ん中の1人分の座席の色を変えたり、座席の間にくぼみをつけるということ。
その席のくぼみは、大人1人が座るスペースを想定してつくられたものだ。
しかし、それが今回の場合、小さくても1人分の席と解釈されてしまったのだ。
座る権利として受け止められ、乗り合わせている他の乗客のことには、全く思いが至っていないということに、愕然とした。
◆社会的マナーは、社会的行動の場で育てる
込んでいる電車やバスでは、席を詰めて座る。
小さな子どもは膝の上にのせて座る。
高齢者や身体の不自由な人には席をゆずる。
こうしたことは、諸外国では社会的マナー(行動センス)となっているところが多い。
小学生以上なら、そのマナーでもって行動させるとも言われる。
大人たちは、そういう状況に出会うと、ちょっと後押しして子どもたちに経験を積ませる。
経験を積むことで、子どもたちは自信を持って行動するようにになっていく。
日本の社会における、そうした社会的マナー(行動センス)を育てる力はどうなのだろう。
その意味で気になったのは、私が注意する前にあの母子に注意した人がいただろうかということ。
日本では今、他人には関わらないというスタンスの人が増えてきたように思う。
その行動を困ったことだと思いつつも、何もしない人が多くなっているように思う。
確かにマナー違反を注意するのには、結構エネルギーが必要である。
今回のように反発が返ってくることもあるので、それに耐える精神力も必要である。
ヨーロッパではマナー違反をした子どもを、よそのおじさんおばさんが注意することがよくあるという。日本でもひと昔前は、悪さをするとよそのおじさんおばさんが叱ってくれたということを聞く。
そういう社会を取り戻したいものだ。
◆おじいさんが教えてくれたこと
私の息子が小学生のころ、こんなことがあった。
山手線に乗っていたとき、ある駅でおじいさんが乗ってきて息子の席の前に立った。
私が促すと息子は席を立って「どうぞ」と言った。
そのおじいさんは「ありがとう。でもすぐ降りるんから」と言って断った。
息子はちょっとがっかりしたようだった。
しかしそのおじいさんは、そこから2つ目の駅で降りる際に、息子に「坊や、ありがとうな」と声をかけて行ってくれたのである。
そのときの息子のちょっと照れたような嬉しそうな顔を忘れることができない。
以後、息子が自分から席をゆずるようになったのは言うまでもない。
おじいさんは、ゆずり合いは気持ちの良いものだということを、息子に教えてくれたのである。
◆席をゆずった若者
思いやりやゆずり合いというものは、「行動として表現できてなんぼ」のものである。
心の中でひそかに思っていたり、「ゆずり合いは大切」と口で言ったり、文章でそのことの意味を立派に書けたり、ということだけでは何の意味もないのである。
学校で道徳の教科書を読んで思いやりについて考えたり話し合うことに意味がないとは言うわけではないが、あまり行動につながるとは思えない。
教科書を中心にした授業には、具体的な行動、具体的な行動対象がないからである。
行動する能力は、行動しなければ身についていかない。
具体の場で、その行動のしかたを見せていく。
体験させて、行動のしかたをつかませていく。
それが必要なのである。
先日読んだ新聞に、悪天候でストップしてしまった特急列車の中で、若者が小さな子ども連れのお母さんに席をゆずったのを見て嬉しかったという投書があった。
電車がストップしてしまったのだから、若者は長時間立つことは覚悟の上で席をゆずったのである。
ゆずられた母子が喜び、母子が喜んだことで若者は喜び、その様子を見ていた人が嬉しく思う。
そこにもし子どもがいたら、その子どももきっとその思いを共有したことだろう。
その場にいた子どもにゆずりあいの心が行動のあり方として伝わり、育っていくに違いない。