★悪い予感
昨年の5月、市民吹奏楽団の無料コンサートに夫と2人で出かけた。駅から会場のホールまでの欅の並木道を歩いているとき、悪い予感がした。同じ方向に行く人の波が、前の年よりかなり多い気がしたのである。
案の定、開園からまだ30分以上前だというのに、ホールの1階席も2階席もほとんど満席に近い状態だった。ホールにはまだ次々と入ってきたので、我々は急いで3階に行き、席を確保した。
市営だが、パイプオルガンも備えた200隻の立派なホールである。三階席は演奏者たちからかなり遠くなるうえ、音質が変わるという懸念があり、吹奏楽好きの夫は不満そうだった。
しかし、すべての演奏が終わったとき、彼は完全に満足していた。演奏そのものは、トランペットの首席演奏者の音がやや不安定(音楽の質までを問題としていないわたしのもわかる程度)であり、市民吹奏楽団の域にとどまるものであったにもかかわらず、である。夫が満足している意味は私にもわかった、私自身も同じことを感じたからである。
それはそれまで、単に吹奏楽の一部門としてあるものといった程度に見ていて、それほど重きをおいていなかったパーカッション(打楽器部門)の魅力を新しく感じ取ることができたからである。三階席に座ってみて、はじめてそれがわかったのである。
★躍動するパーカッション
パーカッションを担当していたのは、私の観察では女性4名、男性2名の6名。曲によって担当が変わり(それにしたがって位置も変わる)、出演の入れ替わりもあるので確かな情報ではないが・・・その6名で、ティンパニー、大太鼓、小太鼓、シロフォン(マリンバ?)、ビブラフォン、シンバル、トライアングル、カスタネット、タンバリン、カウベル(?)を担当する。(私が確認できた範囲である。小さな楽器がもう少しあったようである。)
6人で10数種類の楽器を担当するのであるから、1曲の中でも、一人が複数の楽器を演奏することがしばしばある。素早く席を移動し演奏し、戻ってくる。その動きは実に無駄がなく、茶道の所作に通ずる美しささえ感じる。私は、曲の演奏を楽しみつつも、次はだれがどう動くのかと待っていた。
★いかに音を止めるか、いかに響かせるか
打楽器の演奏では、音を止めることを「音切り」というらしいが、この「音切り」が相当に重要ものだということがわかった。ティンパニーの演奏者が乱打した後、素早く身を乗り出して4つのドラムを抑え、音を止める。大太鼓の奏者が、大きく打ち鳴らした後、これまたすばやく打面を抑えて音を止める。管楽器が作り出す次のフレーズに重ならないようにするためだ。
打楽器は、曲にアクセントをつけるものなのだ。曲を大きく盛り上がらせ、その頂点に達したとこで、さっと次の進行を管楽器に任せる。
一方、トライアングルやカウベルのように小さな音の楽器はいかに響かせるかがポイントになる。小さくても、管楽器の演奏の中には紛れないリズムと音質とで曲の世界に雰囲気をつくり出すのだ。
3階席からパーカッションの奏者たちの動きを見ながら演奏を聴くことで、彼らが作り出した音で曲の雰囲気が劇的に変化する実態を体感することができたのである。
打楽器の意味というか、魅力が感じ取れたのである。
★立ち位置が変わると、視点が変わる
いつもと違う位置から見ると、いつもは見えないことが見える。いつもは一階席で、演奏を総合音として聴いていた。
しかし、三階席からの鑑賞は、演奏を、楽器を演奏する者が創り出すものとして見ながら、聴いていた。演奏を創り出す人たちの世界に少し近づけたのかな、という気がした。
今年も5月に、同じ吹奏楽団のコンサートが同じホールで開催された。
昨年より人が少なく、1階席に座れてしまった。
新しい発見はなかった。
なんだか、少しつまらなかった。
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