◆孔子、脳の働きに迫る?
2500年ほど前の中国春秋時代の思想家孔子の言行を、弟子たちが記録した書物「論語」に「学而不思則罔、思而不学則殆」という言葉が残されている。「学びて思わざればすなわち罔(くら)し、思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」と読む。
「せっかく学んでも、自分で考えてみないと知識は確かなものにならない。自分一人で考えるばかりで他から学ぶことをしなければ、独りよがりになって危険だ」という意味である。
孔子の時代、もちろん脳の働きは解明されていなかった。 しかし、「学びて思わざればすなわち罔(くら)し」という言葉は、まさしく次のような脳の働きを言い当てている。
「行動したことが、行動の記憶として成立する」
脳は、脳が働いたときに興奮した回路の状態を記憶として残す。脳の働き方(どの回路がどのように興奮するか)は行動のしかたでちがう。行動のしかたを耳で聞いた時の脳の働き方と、実際に自分で考えた時の脳の働き方は全くちがうのだ。つまり、考えるという行動は、自分で実際に考えることによって、はじめて脳の働きとして形成されるということである。
人の話を聞いたただけで、自分で考えることをしなければ、その内容は本当には身につかないし、自分で考えるという行動も身につかない。孔子が、教育者としても多くのすぐれた弟子を育てたことは有名である。その過程における人間の行動とその結果とをよく観察分析して、その関連を整理し、学習の本質(脳の働き方)をとらえたのだと思われる。
しかし、孔子ならずとも、行動体験を分析整理すれば、脳の働き方に迫ることができる。
◆理系学生3人の会話
次に示すのは、インターネットブログで展開されていた実在の理系学生3人の会話の一部である。彼らは、自分の経験を整理して、脳の働き方に沿った学習の仕方に迫っている。
A 講義を長年聞いてきて思うのは、「教師が黒板に書きながら話し、それを学生が黙々とノートを取るという方式は果たして有効なのか?」ということ。
物理学をやってきて実感したのは、自分のペースで考えないと理解できないということだ。
ほんの1ページを理解するのに数時間かかったり、たった1行の数式を理解するのに数十分考えることだって珍しくない。
どんどん進む教師の話をリアルタイムでは考えられない。
B それはまさに、数学において私も実感している。
A 黒板に書かれたものをノートに写していると、教師の話を聴く余裕がなくなり、考えるどころではない。
他の人はノートを取りながら考えられるの?
C いや私も同じ。一方的に話す講義方式は、学ぶ側にとっては考える時間が全く足りない。
質問を受けつける時間はあったが、どこがわからないのかわからない状況では質問自体できない。
A 講義でも、その場で理解できるものがないわけではないが、学習方法として講義が一番すぐれているとはどうしても思えない。
「演習」とか「実験」とか、学生が主体となる方法がいくらでもあると思う。
すくなくとも物理、数学に関しては、「演習」や「実験」を中心戦術に採用すべきじゃないのか。
彼らは、会話の中で、中学から大学まで、記憶にある限り、「授業の中心は講義を聴いて板書をノートに書き写す行為」だったと述懐している。そして教師たちがそうした方法を取る理由は「教える側にとって楽な方法だから」「学生がわかっていなくても終了できる」からだと読んでいる。「学生主体の演習や実習では、自分の都合で終われない」からだと言うのである。さらに、講義形式にするのは、「効果的な授業方式を考え付かない教師たちが、惰性で続けているだけ」と手厳しい。
また、最近のパワーポイントを使った授業は「板書以上に問題」という。書く手間がない分、(授業を進める)テンポが速くなるというのだ。次々変わる画面とともに話が展開し、内容が頭に残らない。表やグラフ、図解がカラフルに表示できるので、「一見進んだ講義技術のように見えるが、学習効果からは逆」と断じている。
教師の本来の仕事は、学習者に学び方を習得させ、自分の力で学べるように育てることであるはずだ。板書を書き写させるだけのことでなく、学習者たちの脳を活発に働かせるような授業をしてもらいたいものだ。
それには、3人の学生たちのように、学習者の立場になって考える、自分が新しい考え方をものにしたとき(あるいはものにできなかったとき)、どのような行動をしたかを、振り返ってみる必要がある。
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