2020/01/15

64 童話「カボチャのつる」―これは道徳なのか

もう、少し季節外れの話になってしまったが、書いておきたい。
昨年の9月のはじめの頃のことである。

買い物に出る道の途中にかなり大きな畑がある。
畑と歩道とは、農家が植えたドウダンの垣根で仕切られている。なかなか良い風景だ。
そのドウダンの垣根を、別の植物の葉っぱとツルがおおっている部分があった。
近づいてみると、それはカボチャであった。

畑で栽培しているカボチャが、ツルをのばしてドウダンをおおい、歩道まではみ出さんばかり。
畑の中には、すでに食べごろの大きさのカボチャがいくつもなっている。
それでもなおツルをのばして成長しつづけようとしている。
カボチャの生命力とはすごいものだ。
カボチャは栄養価が高く、食べ方もいろいろあり、値段も安くありがたい野菜だ。
値段が安いのは、栽培のしやすさと、この生命力のおかげなのだなあと、私は感動さえ覚えた。



ところが、この「カボチャ」の生命力が、教育の世界で問題になっているという。
どういうことか???

昨年から教科化された道徳、その小学校1年生の教科書に「カボチャのつる」という童話が載っている。(すべての教科書会社の道徳の教科書に載っているという。)
わがままなカボチャが、ミツバチ、子犬、スイカの忠告を聞かずに、畑の決められた所からはみ出して道路にまでツルをのばし、道路を通ったトラックにツルを切られて泣くという話である。
これが、道徳の学習指導要領の「節度、節制」という項目に位置づけられているのである。

要するに、周りのものの言うことをよく聞く、ルールを守って生活することが大事であるということを教えるべしということだ。
これに対して教育者や保護者から批判の声が上がっているという。
多くは、「子どもの個性を認めない」「一つの結論を押しつけようとしている」というもの。
「勝手に行動していると痛い目にあうぞ」というおどしだという意見もある。
それぞれもっともな意見である。

しかし、私が最も問題にしたいと思うのは、なぜ主人公が「カボチャ」なのかということである。
そしてわがままな行動というのが、なぜ「ツルをのばす」ことなのかということである。

上にも書いたが、カボチャは生育が早く、旺盛に育つ野菜なのである。
ツルをどんどんのばすのは、カボチャの本来の性質なのである。
そして、のばしたツルのそこここたくさんの実をつけてくれる。
子どもたちには、むしろカボチャに感謝や愛着の気持ちを持ってほしいと思うくらいで、ツルののばし方に文句をつけるなどもってのほかだ。

栽培方法がやさしく育ちやすいので初心者にお奨めと、ネットの野菜栽培講座には書いてある。
カボチャの性質を心得て、ツルがのびる範囲を予測して、畑のどこにどう種をまくか、どう肥料をやるかは、人間が考えるのである。
ツルの伸び具合や、実のつけ方は日照や雨の具合にもよる。
それを見計らって世話をするのは、人間の責任なのである。

道徳というのは、社会生活の中での行動のあり方の問題だ。
行動のしかたにつながらなければ何の意味もない。
「勝手な行動をしない」と言っても、何が勝手で、何が勝手でないのか、判断はそう簡単なことではない。自由な行動、主体的な行動とどう区別するのか。、自分が遭遇する場面において具体的な行動として表現することは大人でも難しいことだ。

この「カボチャのつる」における行動者は、人間でないカボチャである。
そもそも野菜であるカボチャのつるののばし方が、行動のモデルとして適切なのか。
この伝でいくと、朝顔の花が咲かなかったのは、世話をする自分が水やりをしなかったせいでも、陽のあたらないところに置いておいたせいでもなく、朝顔が怠けて寝坊をしたからだなんて話にもなりかねない。

抽象的なお話の世界のことを、自分の身の回りの行動に置き換えて考えるということはなかなかむずかしいし、ましてや具体的な行動として表現することは簡単ではない。
高齢者や身体の不自由な人に座席をゆずるというような当たり前のようなことでさえ、多くの人がなかなか行動できないでいるくらいだ。
子どもたちには、具体的な行動のしかたとして表現していかれるように、少しずつ具体的な行動の場で行動させていくことが必要である。そうした積み重ねで行動習慣として身について初めて道徳として成立するのである。

子どもたちの行動の場は、教室であり、校庭であり、通学路であり、それぞれの家庭である。
また、家の近所であり、外出した先である。
道徳的行動力は、そうしたさまざまな場における具体的な行動を通じて育てていくものである。
教室の中で、教科書を読んで、話合うだけで、道徳的態度・道徳的行動力を育てようと考えているのなら、それは人間の行動形成についての勉強が不足していると言わざるを得ない。









2019/08/29

63 席をゆずるという能力―社会で育てる

 
最後の例は、夜の地下鉄有楽町線でのこと。


◆座席に荷物を置き、間をあけて座る親子


平日の夜9時過ぎ、電車は仕事を終え家に帰ると思われる人々で込み合っていた。
その中で、間をあけて座ってはしゃいでいる2人の子どもの姿が見えた。
大きい方が小学生、小さい方が5才ぐらいだろうか。
ターミナル駅で私に前にいた乗客が降りたのでよく見ると、左端に母親らしい女性が座っており、右隣の2才ぐらいの眠っている子どもを抱え込んでいた。彼女もまた眠っているかのようだった。
座席は、一列大人8人掛け(少しくぼみがあって8人座ってくださいというメッセージが込められた)、真ん中にポールが立っており、両側4人ずつ座るようになっている。
その片側大人4人の席に、大人1人と小さな子どもが3人座っているのである。
当然席には余裕がある。
余裕どころか、確実におとなひとり分のスペースが空いている。
子どもたちは、そこに自分のリュックを置いていた。


◆小さくても1人分?


込み合っている車内で、大人の席に小さな子どもが一人ずつ。
空間があっても詰めずに、荷物を置いているなんていけないこと。
この子たちのためには注意すべき・・・
 
乗換駅が近づいていたので迷ったが、私は荷物をわきに置いていた子どもに言った。
「荷物をおひざの上に置きなさい。そうしたらもう一人座れますよ。」(ごくやさしくである。)
すると、眠っていたと思った母親が顔を上げて叫んだ。
「ここは4人分の席なんです!」

4人で4人分の席に座っているのだから席をゆずる必要はない、
1人分の席には大人子どもに関係なく1人ずつ座る権利があるという意味らしい。とんだ誤解だ。
しかし乗換駅についてドアが開いてしまったので、私は次の一言を言う間もなく電車を降りた。
振り返って車内を見たが、母子が席をゆずった様子はなく、電車は発車した。

座席に間をあけて座ったり荷物を置いたりする人が、残念ながら結構いる。
鉄道会社がある人数を想定して用意している席に、それより少ない人しか座っていないという例をしばしば見かける。
そこで鉄道会社が考えたのが、真ん中の1人分の座席の色を変えたり、座席の間にくぼみをつけるということ。
その席のくぼみは、大人1人が座るスペースを想定してつくられたものだ。
しかし、それが今回の場合、小さくても1人分の席と解釈されてしまったのだ。
座る権利として受け止められ、乗り合わせている他の乗客のことには、全く思いが至っていないということに、愕然とした。


◆社会的マナーは、社会的行動の場で育てる


込んでいる電車やバスでは、席を詰めて座る。
小さな子どもは膝の上にのせて座る。
高齢者や身体の不自由な人には席をゆずる。
こうしたことは、諸外国では社会的マナー(行動センス)となっているところが多い。
小学生以上なら、そのマナーでもって行動させるとも言われる。
大人たちは、そういう状況に出会うと、ちょっと後押しして子どもたちに経験を積ませる。
経験を積むことで、子どもたちは自信を持って行動するようにになっていく。
日本の社会における、そうした社会的マナー(行動センス)を育てる力はどうなのだろう。

その意味で気になったのは、私が注意する前にあの母子に注意した人がいただろうかということ。
日本では今、他人には関わらないというスタンスの人が増えてきたように思う。
その行動を困ったことだと思いつつも、何もしない人が多くなっているように思う。
確かにマナー違反を注意するのには、結構エネルギーが必要である。
今回のように反発が返ってくることもあるので、それに耐える精神力も必要である。

ヨーロッパではマナー違反をした子どもを、よそのおじさんおばさんが注意することがよくあるという。日本でもひと昔前は、悪さをするとよそのおじさんおばさんが叱ってくれたということを聞く。
そういう社会を取り戻したいものだ。


◆おじいさんが教えてくれたこと


私の息子が小学生のころ、こんなことがあった。
山手線に乗っていたとき、ある駅でおじいさんが乗ってきて息子の席の前に立った。
私が促すと息子は席を立って「どうぞ」と言った。
そのおじいさんは「ありがとう。でもすぐ降りるんから」と言って断った。
息子はちょっとがっかりしたようだった。
しかしそのおじいさんは、そこから2つ目の駅で降りる際に、息子に「坊や、ありがとうな」と声をかけて行ってくれたのである。
そのときの息子のちょっと照れたような嬉しそうな顔を忘れることができない。
以後、息子が自分から席をゆずるようになったのは言うまでもない。
おじいさんは、ゆずり合いは気持ちの良いものだということを、息子に教えてくれたのである。


◆席をゆずった若者


思いやりやゆずり合いというものは、「行動として表現できてなんぼ」のものである。
心の中でひそかに思っていたり、「ゆずり合いは大切」と口で言ったり、文章でそのことの意味を立派に書けたり、ということだけでは何の意味もないのである。

学校で道徳の教科書を読んで思いやりについて考えたり話し合うことに意味がないとは言うわけではないが、あまり行動につながるとは思えない。
教科書を中心にした授業には、具体的な行動、具体的な行動対象がないからである。

行動する能力は、行動しなければ身についていかない。
具体の場で、その行動のしかたを見せていく。
体験させて、行動のしかたをつかませていく。
それが必要なのである。

先日読んだ新聞に、悪天候でストップしてしまった特急列車の中で、若者が小さな子ども連れのお母さんに席をゆずったのを見て嬉しかったという投書があった。
電車がストップしてしまったのだから、若者は長時間立つことは覚悟の上で席をゆずったのである。
ゆずられた母子が喜び、母子が喜んだことで若者は喜び、その様子を見ていた人が嬉しく思う。
そこにもし子どもがいたら、その子どももきっとその思いを共有したことだろう。
その場にいた子どもにゆずりあいの心が行動のあり方として伝わり、育っていくに違いない。












 







2019/08/21

62 席をゆずるという能力―育て方

 夫婦2人で山手線に乗ったとき、30代ぐらいの外国の男性2人に席をゆずられたことがある。
 旅行者のようで、2人ともキャスターのついた大きなスーツケースを持っていた。
 2人は、私たちを見るとすぐにニコニコしながら、どうぞというそぶりをした。
 逡巡することもなく、実に自然な態度だった。
 年上の人には席をゆずるというのは、彼らの行動習慣になっているのだ、と感じた。
 私たちはありがたく申し出を受け、礼を言った。

 どうしたら彼らのように、席をゆずるということが、何の抵抗もなくできるようになるのか。


◆経験を積み重ねると行動習慣となる


 それは、その行動を何回も積み重ねるということである。

 たとえば、私たちは朝起きたとき、家族に「おはよう」と言う。
 家族の顔を見て「おはよう」という、それは極めて簡単なことだけれど、これは生まれついて持っている行動能力ではない。

 ごくごく小さいときから、毎朝起きたら親が子供に「おはよう」と声をかけ、「おはよう」と答えさせる。子どもがちゃんといったらほめ、時には自分から言うように促したりする。
 そうして1ヵ月2ヵ月たつうちに、いつの間にか子どもは言われなくてもじぶんから言うようになるのである。行動習慣として脳の回路に位置づくのである。

 席をゆずるという行動も同じである。その行動を積み重ねる。
 ゆずるべき人かどうかを判断する、声をかけ、席を立ってゆずる行動を示す。
 それを積み重ねていくと、抵抗感なくゆずることができるようになるのである。
 そういう人がいれば、席をゆずるということが、脳の行動習慣となるのである。

 家族と一緒に電車に乗るとき、学校行事で電車移動するとき、部活動で電車移動するときなど、「席ゆずり」の行動のチャンスは結構ある。
 そうした時に親や指導者は、子どもに席をゆずる練習をさせることができる。
 (「判断」「声をかける」「席に誘導する」、行動の要素を分けてやってもよい。)


◆遠足の子どもたちと遭遇したときのこと


 少し前のことだが、普通電車の中で、どこかの学校の遠足(校外学習?)らしい一団に遭遇したことがある。30~40人ほどの人数で、1車両の殆んどの座席をしめた子供たちは大はしゃぎ。向かい合った席の向こうとこちらでゲームをしていたり、吊革にぶら下がって遊んだり。何駅かすぎたとき、高齢の方が2人乗ってこられたが、子どもたちは気にも留めない、というより気がつかない。

 私は、近くの子供に「だれかせきをゆずってくれないかな」と声をかけた。
 すると、子どもはびっくりしたようだったが、座っていた子どもに声をかけてすぐに席をゆずってくれた。行動のしかたはなかなか親切で感じがよかった。
 「ちゃんとできるじゃないの」と私は思った。
 あとは、そういう人が自分の近くにのってきたかどうか気づくようになればいい。観察力を育てるということだ。指導者がついていて、気づかせてやればよい。「もう少しだ。」

 実はこのとき、車両の端の方(私のすぐそば)に引率の教師が乗っていたのである。
 遠足や校外学習は、目的地での行動のしかたばかりでなく、移動の間も社会的な行動のしかたを育てる場であるはずなのだが、2人の教師はおしゃべりをしていたのである。
 「気がつきませんで、申し訳ありません」と2人は私に謝ってきた。
 「いいチャンスですから、子どもたちの指導をおねがいします」と私は頼んだ。

 電車に乗ると沿線の学校の運動部や、試合帰りの他校の運動部の一団に乗り合わせることもしばしばある。そうしたとき、下級生が上級生のために席を確保する場面をよく目にする
 しかし、近くに立っているお年寄りに席をゆずるということはめったに見かけないのである。

 疲れているのかもしれないが、上級生は積極的に席をゆずり、下級生に範を示してほしいものだ。いやまず、ゆずるべき人がいないかどうかを後輩に観察させ、席に案内し、それでも空いているようなら自分が座る。それでこそスポーツマンというものではないかと思う。

 指導者には、そういう場を行動のしかたを育てるチャンスとみて、指導するセンスが欲しい。


◆優先席に座わらせて、そして・・・


 「お年寄りや身体の不自由な方、妊婦さんや赤ちゃんを抱っこしている人に席をゆずりましょう」などと、口でいくら言い聞かせても、行動にはなかなかつながらない。
 行動できるようにするには、その行動を成立させている要素を経験させる必要がある。

 具体的な行動の場で、いかに経験を積ませていくか、鵜の目鷹の目で行動のチャンスを探す。
 それが社会に子どもを送り出す親や教師の役目だと思う。

 そういう意味では、優先席は大変都合の良い場所だ。
 優先席というのは、高齢者や障がいのある人、また妊婦さんや身体の具合の悪い人などが優先的に座れる席として、鉄道会社やバス会社が用意した席である。
 だから、当然座るべき人、ゆずられるべき人ががやってくる割合が高い。
 だから、この席に座っていれば、席をゆずる経験を積むチャンスが多くなるし、断る人もあまりいないのでゆずりやすい。

 だから、親や教師は、優先席を遠慮して他の席に座るのではなく、あえてこの席に子どもを座らせてほしい。
 そして、席をゆずる経験をさせてほしい。
 ゆずるべき人かどうかの判断や、ゆずるタイミングや、ゆずるときの声のかけ方、そういったことを経験させてやってほしい。
 最初は少しのアドバイスが必要かもしれない。
 しかしじきに子どもは、一人で行動できるようになる。

 そして、もう少し言うなら、優先席に座るということは、
 「私は席の必要な方にいつでも席をゆずる用意があります」
ということの意思表示であるということを、子どもに教えてやってほしい。
 (それを自覚できていない大人が多いということと共に。)
 







 

 
 


 

2019/08/19

61 席をゆずるという能力

 「席をゆずる」という行動は、能力としてとらえなければならないと思う。
 観光立国としてやっていこうというつもりなら、この能力はぜひ鍛えていかなくてはならないのではないかと思う。
 「席をゆずる」という能力はどういうものなのか、そして、それはどのようにして育つのか、
ということについて私が経験したいくつかの例を材料にして考えてみた。


◆席を替わろうとした2人の若者


 第一の例は、私が西武池袋線各駅停車の優先席の真ん中に座っていたときのこと。
 次の駅で高齢のご夫婦が乗ってきた。ご主人の方は足が悪いようだった。
 私が「どうぞおかけください」と言って立つと、私の両側に座っていた若者2人が、はじかれたように立ち上がった。2人の若者もまた、席をゆずろうとしたのである。

 席が3つも空いたのだが、結局足の悪いご主人だけ出口に近い方の若者の席に座った。
 奥さまは固辞されたので、私ともう一人の若者は席に戻ったのだが、私は若者の気持ちがうれしくて2人に礼を言った。2人は少し戸惑ったような顔をしていた。
 しばらくして急行乗換駅につき、ご夫妻は私に礼を言い、私は若者に礼を言い電車を降りた。

 「若者は高齢者や障がいのある人たちの席をゆずらない」「いたわるという気持ちがない」という批判の声を聞く。しかし、このとき思ったのは、気持ちがないのではなく、それを行動に現わす練習をしてきてないんだな、ということだった。

 席をゆずるという行動は、慣れれば簡単だが、結構いろいろな判断が必要である。
 「席をゆずるべき対象の人が乗ってくるかどうか(もしくは周辺にいるか)」を観察しなければならないし、「どういうタイミングで声をかけるか」「いつ立ち上がるか」「どう誘導するか」などなど。

 そもそも、その人が席をゆずるべき対象であるかどうかも判断することは難しい。「年寄りと思われたくない」という人に声をかけてしまって怒らせたくないというような心配もある。ぐずぐずしていて、その人と自分との間に別の人が何人も乗ってきて声をかけにくくなってしまうというような、状況の変化もある。


◆わかるとできるではなく、できるとわかる


 私自身いまでこそ、そうした人を見かければ席をゆずれるようになったが、若い頃は「どうしようか」と逡巡しているうちに、その人が遠くに移動してしまったり、間に別の人が入って声をかけられなくなったりというなことが何度もあった。

 何回かやっているうちに、だんだんゆずるコツがつかめてきた。それは、思ったらすぐやる、あまり考えずにやるということだ。ゆずるべき人かな?と思ったら、すぐ席を立ち「どうぞ」と声をかけるのだ。断られてもいい、気にしないで「ああそうですか」と席に戻る。

 ゆずってみて、喜んで座ってくれたら、それで良かったんだとわかるし、うまくできなかったり断わられたりしたら、その状況から一つ情報を得ることができる。
 やってみることによって、ゆずるという行動のしかたがわかってくるのである。
 わかってからやるというのでは、いつまでたってもできはしない。


 













2019/05/22

60 イチロー引退会見

 イチローが引退して、約2ヵ月近くになる。
 その引退会見は感動的であった。
 そして、脳の行動の法則にもかなった素晴らしいものだった。

 私は、イチローのコミュニケーションに前から興味を持っていた。
 イチローがまだ日本でプレーをしていた頃、記者たちはイチローへのインタビューに苦労しているようだった。
 スーパープレイをほめると、そっけなくそれを否定するとか、打率トップ時にその話をするとはぐらかされるとか、無視されるとか、つまらぬことを聞くという態度をされる。「地獄だった」と述懐する記者もいたようである。必然的に記事も、愛想のいいゴジラ松井の方が好意的に書かれていたという記憶がある。
 しかし私は、イチローのその物言いに興味を持った。彼の関心は、記者たちが関心を持つ「その場のプレーの良し悪しや成績」ではないものにあると感じ、それは一体なんだろうと思っていた。

 そのイチローが、引退経験では、集まった記者たちに、何と1時間半近くも答えたので驚いた。
 しかも深夜にである。
 イチローは、いったい何を質問され、どう答えたのであろうか。
 心に残った言葉をあげてみる。
 (イチローの言葉は、意味の重複するところは省略、また言葉では表現してはいないが、意味を取るのに必要な事実背景については(  )の中に補足した。)


①子どもたちへのメッセージを求められて


 (こういうシンプルな質問が難しいと言いながら)
 自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つければ、それに向かってエネルギーを注げるので、そういうものを早く見つけてほしいと思います。
 それができれば、自分の前に立ちはだかる壁にも向かって行くことができると思うんです。それが見つからないと、壁が出てくるとあきらめてしまうということがあると思うので、いろいろなことにトライして、自分に向くか向かないよりも、自分が好きなものを見つけてほしいなと思います。


②一番印象に残っているシーンについて


 時間がたったら、今日(引退試合での出来事)が一番真っ先に浮かぶのは間違いないと思います。いろいろな記録に立ち向かってきたんですけど、そういうものは大したことではないというか・・・
 今日のような瞬間(試合後、ファンが誰一人として帰らず、イチローコールをし、再び現れたイチローを割れるような歓声で迎えたこと)を体験すると、すごく小さく見えてしまうんです。


③ファンの存在について


 ニューヨークに行った後ぐらいからですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきました。ファンの存在なしには、自分のエネルギーは全く生まれてこないと思います。
 え、おかしなこと言ってます、僕? 大丈夫ですか?(会場笑)


④野球が楽しかったのは1994年まで


 1軍2軍行ったり来たり、「そうか、これが正しいのか」と、そういう状態でやっている野球はけっこう楽しかったんですよ。1994年、(オリックスに入って)3年目に仰木監督と出会って1軍レギュラーに使ってもらった。野球が楽しかったのはそのときまで。
 そのあとは、番付が急に上げられてしまい、それ方はずっとしんどかったです。力以上の評価をされるというのは、とても苦しい。やりがいがあって達成感を味わうこと、満足感を味わうことはたくさんありました。じゃあ、楽しいかというと、それとは違うんですよね。


⑤言葉にするということの意味


 (最低でも50歳までは現役と言っていたので)有限不実行の男になってしまったんですけど、その表現をしてこなかったら、ここまでできなかったという思いもあります。言葉にして表現するということは、目標に近づく一つの方法だと思います。


⑥体験しないと生まれない


 アメリカにきて外国人になったことで、人の気持ちをおもんばかったり、人の痛みを想像したり、今までになかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。


⑦苦しんだ体験がささえになる


 孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きなささえになるんだろうと思います。
 だから、つらいこと、しんどいことから、逃げたいというのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気のあるときにしれ(しんどいこと)に立ち向かっていく、そのことはすごく人として重要なことではないかと感じています。
 あ、締まったね、最後。(会場笑)

  ● ● ● ● ●

 一言で言い表すなら、「若者に向けてのメッセージ」であったように思う。
 成功することではなく、目標に向かって一生懸命にやることが大事なのだということ。
 体験するということが大事だということ。相手の立場を体験することで、相手のことを理解できる、相手を思いやることができる。いや、イチローはそんな尊大な言い方はしていなかった。「相手をおもんばかる自分」「想像する自分」が生まれたと言っていた。

 「苦しんだ体験がささえになる」というのもいいことばだ。
 成功した姿も、苦しむ姿も見せてきたイチローだからこそ言える、若者に向けてのすばらしいメッセージだ。苦しくてもイチローはやり続けた。その姿を私たちは見てきた。野球が好きだから続けられたと言っていた。好きであれば、壁に向かって挑戦する力が生まれる。そして、そのことが自分に充実した人生をもたらした。子どもたちへのメッセージに、その思いが込められている。

 「いろんなことにトライして、自分に向くか向かないかより、自分なものを見つけてほしいなと思います。」






















 
 

59 詐欺ハガキが来ました その3

◆“期限2日前”が分かれ目だった


 4月始め、詐欺ハガキにだまされて、2600万円を取られた女性は、「訴訟通知センター」の職員、また弁護士を名乗る男から、「弁済供託金」が必要といわれて、送金してしまった。 

 彼女に、疑問は持ちつつも「もしかして」と思わせ、詐欺グループに電話をさせてしまったのは、期限2日前という記述だった。それが焦りを生み出し、よく見ればおかしなところがいくつもあるハガキの嘘を見抜けなかったようだ。
 この期限2日前というような被害者を焦らす手立て、これは詐欺グループの常套手段であるという。

 しかし、私がこのハガキを詐欺だと確信したのは、まさにその期限2日前という記述にある。

◆訴訟の具体的イメージの有無が、道を分けた


 私には、自分が企業・団体と契約したことや債権譲渡したことがないことを自覚しているということもあったが、仮に契約不履行等の覚えがあったとしても、いきなりこのような通知が期限2日前に来ることなどない、と確信があったからである。

 事件捜査もの、弁護士ものドラマの好きな私には、訴訟―裁判がどのような段取りで行われるものなのかの大よそのイメージがあった。そのイメージと、今回の通知とは合致しなかったので、「このハガキは変」と思えたのである。

 訴訟というのは、当事者同士の紛争を、裁判所という第三者を介し法律に基づいて解決するための手段である。相手の不正を訴えたいものは、まず自分が相手に対して何を問題にしているのかを知らせるところから始まる。いわゆる訴状である。
 ニュース報道でも、違法行為で訴えられたものがインタビューを受けて、「訴状がまだ届いていないのでお答えできない」などという場面を目にすることがある。裁判になるには、まず訴状が届き、相手方の訴えの内容が知らされるのだということがわかる。

 訴えられた側は、訴状が届いたからといって、いきなり裁判になるわけではなく、言い分があれば、そこから話し合いをし、場合によっては相手が訴状を取り下げることもあり、自分に非があると認めれば金を払って、示談にすることもある。
 金が必要なのは、この段階でなのであって、この頃は、TVドラマでもこうした場面がよく描かれている。何も話し合いもせず、すぐさま金のやり取りになるということはないのである。

 仮に、あわてて電話をしてしまっても、こうした認識があれば、いきなり金の話になったら「これは変」と思えるのである。
 詐欺に引っかかるかどうかは、詐欺のネタになっているものごとの具体的イメージがあるかどうかが分かれ道であると言えよう。

◆870人に一人がだまされている

オレオレ詐欺や、この訴訟詐欺(架空請求詐欺という分類に入るらしい)など、いわゆる特殊詐欺被害は毎年増加して、2017年は18,000件を超えた。2009~2018の10年間の合計は12万件。詐欺の対象にならない未成年者を除いた人数で計算すると、約870人に一人が被害にあったことになる。中高年に絞ると、この割合はもっと高くなるはずだ。(被害額の平均は200万円超)
 これは少しだまされすぎではないか。

 多くの日本人は「自分はだまされない」という自信をもっているらしい。集会などでたずねると、ほとんどの人が「だまされないという自信がある」という方に手をあげるという。
 にもかかわらず、このだまされっぷりはどうだ。
 根拠のない自信は捨てて、詐欺に「だまされない力」をみがいた方がいい。


◆詐欺グループは研究熱心


 詐欺グループは、実に研究熱心である。
 最近被害が増加している架空請求詐欺(訴訟詐欺はこの分類に入る)、還付金請求詐欺、仮想通貨詐欺など、いずれも言葉として知ってはいるが、いずれも手続きが役所や、銀行など専門性が高く、普段なじみのないものが多い。近親者を語るオレオレ詐欺にしても、金を要求する理由には、損害賠償や契約不履行など背景に法律が絡んでいるようなものであることが多い。
 言葉としては知っている、聞いている、しかし、その実態や具体的な手続きについてはイメージを持っていない、そうしたものをねらって計画されている。改元詐欺などのように、どんどん新しい要素を取り込んできている。
 この恐るべき敵にどう対抗するのか。

 詐欺グループは、実に熱心に研究している。工夫もしている。
 こちらも「だまされない力」をみがいておかなければ、油断していると、いつ自分が被害者になるかもしれない。


◆だまされない力をみがく


 詐欺にだまされないためには、いくつかのポイントがあるという。

 ・いったん電話を切って、話の内容を家族や信頼できる友人に確かめる。相談する。
  (ハガキだったら、見せて相談するということだろう。)
 ・すぐ金の話になったら、変と思え。
 ・警官や自治体職員が、金のやり取りに絡むことはない。
 ・カード類は絶対に渡してはいけない。暗証番号は教えてはいけない。

 など、詐欺被害に共通する。こうした内容は、TV放送や、警察公報、また地域の有線放送などを通じて伝えられている。にもかかわらず、被害者は一向に減らない。これはどうしたことか。

 それは、ただ言っているだけ読ませているだけだからであり、それをただ聞いているだけ読み流しているだけからである。
 言葉で知っているということと、そのことが行動できるということは、イコールではない。
 言われたから、読んだからといって、できるものではない。
 行動力は、行動することによってのみ身につくものであって、行動しなければ行動できるようにはならないのである。
 
 そこで、提案したいのは「詐欺見破り練習講座」だ。
 詐欺かもしれない電話、ハガキ、メールなど具体的な材料、事例を用意して、それが本当なのかどうかを見極める練習をする。相手の言うなりにならず、まず相手を確認する、内容について調べる、という行動習慣をつくるのが目的である。
 詐欺ではない本物も混ぜておいて、グループで力を合わせて“詐欺”を見破るのである。
 またそうした中で、訴訟、税金の還付、損害賠償、財産分与など、さまざまな手続きの実態もつかんでいく。
 自治体や銀行、警察などが協力して、やれないものだろうか。
 

◆“自分の頭で考え調べる行動習慣”を育てる教育を


 「だまされる」というのは、「相手の言うことをうのみにする」という行動である。
 この行動のしかたには、日本の教育の在り方に責任の一端がある、と私は考えている。
  
 日本の学校では、小学校から高校(もしかすると大学も)まで、算数・数学・技術・音楽などの具体的な活動をする一部の教科を除いてほとんどが、教師が解説・説明したことや、教科書に書いてあることを覚えるという形で勉強し続けてくる。教師の言うことや、教科書に書いてあることに疑いを持つなどということは、まずない。要するに、うのみである。
 開設された言葉を覚え、言葉で答える。試験も言葉なので、言葉が合っていれば、自分で考えられるようにならなくてもそれで済んでしまう。

 詐欺のネタにされている司法や、行政のしくみなどについても、学校で学んできていのであるが、それは、意義とかねらいとかの解説に偏っていて、現実の生活行動に位置づいたものになっていない。しかし、学ぶ側も、自分が具体的にどう活用するかという視点がないので、質問もしないし、それ以上調べることもしてこなかった。わかった気になっているのである。
 詐欺グループにそこのところを突かれているのだ、と言ってもよいのではないか。

 目の前のことに対決し、自分で調べてみる、考えてみる、確実なところから情報を取るという行動習慣をつくること、そしてそういうことができる能力を育てること。それは、先の見えなくなった世の中を切り開いていくための人間を育てるためには、欠かせぬ方向だと言われるが、それは同時にだまされない人間を育てるということにもつながるものだと思う。

 
 






2019/05/21

58 詐欺ハガキが来ました その2

◆1か月後にまた来ました


 前のハガキが来てからほぼ1カ月後の4月23日、「民事訴訟最終通達書」なるものが、また送られてきた。文面は全く同じであるが、訴訟番号がちがっている。
 訴訟取り下げ最終期日は4月25日となっている。前回と同じく2日後。

 訴訟番号がちがうので、前回とはちがう訴訟ということになる。
 同じ相手に、ちがう訴訟についての「最終通達書」を送ってきたというわけである。
 前に送った通達書への反応は調べていないのだろうか。



 訴訟番号以外にちがっているところがもう一つ。電話番号だ。
 犯人は、複数台の固定電話を用意してやっているということがわかる。
 一人ではない。グループでやっているということだろう。
 よく見ると、ハガキの消印は2枚とも板橋。通知センターは霞が関にあるはずなのにね。
 どうやら犯人グループのアジトは、板橋近辺らしい。

 そういえばネット投稿の中に、受け取った詐欺ハガキの消印が板橋だった、というものがあった。
 それは問題じゃないのか。

◆郵便局の責任は?


 その詐欺ハガキは、発信人が私のところに送られたものと同じ「訴訟通知センター」。
 おそらく、同じ詐欺グループが出したものだと思われる。
 私のところに全く同じ文面で2通も来ているぐらいだから、おそらく、同じものが何百枚と出されたことだろう。板橋局では当然気がついているはずだ。

 ネットでは、法務省を始めとして、国民生活センターや警察、市役所やら区役所やらが、この手のハガキは「無視してください」と警告しているし、送られた経験のある人もさまざま情報をあげている。そうした詐欺ハガキを、郵便局が送り出しているということに引っかかる。

 郵便局に苦情を言った人が、「局員はハガキの文面は読まないので」と言われたそうだが、大量に同じ文面で出されたものがあれば、これは何?と思うのが普通ではないのか。裁判所からの訴状は、本人に直接配達ということは、局員なら心得ていて当然のことであるから、すぐに詐欺ハガキと見破ることができるはずである。それは警察その他から、詐欺ハガキとして警告されているものであると。
 
 4月初めに、詐欺ハガキにだまされて、さいたま市の女性が先方に電話をしてしまい、2600万円ものお金を送ってしまった。「通知センター」の職員を名乗る男から「弁済供託金」が必要と言われて、何回かに分けて、指定された住所に送金したという。彼女は、郵便局が詐欺ハガキを配達しなければ、被害者にはならなかったのである。
 「局員はハガキの文面は読まないので」という言い訳で済むことなのだろうか。
 郵便局は、詐欺の片棒を担いでいるということになりはしないか。

 「出されたハガキは配達しなければならない」「文面は読むことはできない」とあくまで言い張るとしても、詐欺ハガキが大量に送り出されて被害を生み出していることは事実なので、郵便局としても警告を出す必要があるだろう。その場合、どのような警告を出すのであろうか。

 「郵便局から『訴訟最終通達書』等の名称でハガキをお送りしておりますが、それは詐欺ですので、くれぐれも記述してある電話に連絡などはなさらないでください」

とでも書くのだろうか。

(次稿は、なぜだまされるのか、について)