2020/10/02

66 「おだて」と「ほうび」

 やればできる・・・


活躍したよその子(他の人)を見て、
「うちの子だって能力はあるの。やればできるんだから・・・」
「私だって、頑張ればあれぐらいできる。能力はあるんだから・・・」
と思ったことがありますか。
やればできるはずのうちの子は、その後、できるようになりましたか?
できるようにならなかったという場合、なぜできなかったのかを考えてみましょう。


やり続けることが出来るという能力


うちの子はやるべきときにやっただろうか? 
どのぐらいがんばっただろうか?
  やらなかった/やったけどできなかった/がんばったけどできなかった
まず、
ちょっとやってみたけど難しいからやめた、というのではできるようにはならないのです。

能力というのは、最初からあるわけじゃない。
やるべきときにやり、がんばることによって育つ。
その意味では、やる力/やり続ける力/がんばり続ける力=能力 
と言えるかもしれません。
どうしたら、やり続ける力が育つのでしょう。

やり続けることが出来るのは、やる気が続くということです。
では、そのやる気とは、どうしたら生まれるのでしょうか。
そして、どうしたら続くのでしょうか。


「おだて」と「ほうび」


歌舞伎界のホープ尾上菊之助さん(初舞台6歳)は、自分の幼少期を振り返って、稽古を続けられたのは「おだて」と「ほうび」だったと語っています。
(9/30テレビ朝日モーニングショー、玉川徹氏のインタビューに答えて)

指導者である親や先輩が「それでいいんだ。よくできたな」と言ってくれる言葉。
ごほうびに買ってくれるゲーム。部隊の演技にお客さんから送られる盛大な拍手。
求められる演技のレベルはだんだん上がって来るでしょうが、その段階段階での「おだて」と「ほうび」によって得られる快感が、やり続ける意欲を育てたようです。
やり続けているうちに、歌舞伎への理解が深まっていき、やがてこの世界を守りたいという気持ちになったと、菊之助さんは言います。


「がんばった感」と「出来た!感」の継続が大事


ちょっとがんばればできる程度のちょうどよい目標をたてて、行動させる。
ダメなところを指摘するのではなく、良かったところをほめていく。
「ここが出来ればもっと良くなる」と言って、がんばらせる。
そしてそれが出来たら、うんとほめる。
自分の「出来た!」という実感と、周囲の気もちと一致したとき、満足感とともに、次への意欲もわいてくる・・・
このプロセスを積み重ねる。それがまさに、親や指導者が考えるポイントだと思います。
(成長したいと思っている自分自身にも通じるものだと、私は考えます。)

 ★「ほうび」はおもちゃやゲームのようなものとは限りません。
  その人、その年齢にあったものを考える必要があります。(念のため)







2020/10/01

65 あきらめなければ思いはかなう?

 「あきらめなければ思いはかなう」
何かを目指して努力している人を励ますために、よくかけられる言葉だ。
何年か前に、毎朝放送されていたTV番組のキャッチフレーズでもあった。
しかし、ほんとうにあきらめなければ思いはかなうのだろうか。
思いが強ければ、願いはかなうのだろうか。

「力が同じなら、思いが強い方が勝つ」
かつて、日本サッカーチームがものすごいアウェーで闘い、勝利したことがあった。
2004年のアジアカップ決勝。日中戦争の折、日本軍が大爆撃をして多くの犠牲者を出した重慶での試合。日本選手に浴びせられた怒号とブーイング。コートの中に物も投げられたという。
その中で、日本の選手たちは闘い、勝った。
人々は言った。「日本チームが勝ったのは、それだけ思いが強かったのだ」と。

しかし、あきらめなければ、本当に思いは叶うのか?
強い思いをもって闘えば、勝てるのか?

結論を言えば、かなうこともあり、かなわないこともある。
「あきらめない」「強い思いをもつ」ということは、必要条件であって、十分条件ではないからである。
あきらめずにやり続けても、目標に対して自分の実力が伴わなければ、思いはかなわない。
勝ちたいと強く思っていても、自分より遥かに相手の力が優っていれば、勝てないということもある。
勝ちたいと思う気持ちが強すぎて、緊張のあまり、実力が出せないということもある。

しかし、あきらめずにやり続けなければ、また闘い続けなければ、思いはかなわない。
途中であきらめて、目標に向かって行動するのをやめてしまえば、思いはかなわない。

つまり、はっきり言えることは「あきらめなければ、思いはかなう」ではなく、
「あきらめて行動しなければ、思いはかなわない」ということだ。
あきらめずに行動し続けることが大事、ということだけが確かなことである。
そして、それが次のステップ、次の目標につながるということである。

コロナ禍の中、東京オリンピックの開催が危ぶまれている。
いくら強く思っていても、いくらあきらめなくても、場合によっては目標そのものがなくなるということもあり得るのだ。
そうなったときに大事なのは、ほんとうの目標はそこにあるのではない、と感じとる力だ。
本当の目標は、自分自身をみがくこと、そこに向かって努力し続ける力を身につけることだ。
そして、次のステップへ踏み出す力だ。




2020/01/15

64 童話「カボチャのつる」―これは道徳なのか

もう、少し季節外れの話になってしまったが、書いておきたい。
昨年の9月のはじめの頃のことである。

買い物に出る道の途中にかなり大きな畑がある。
畑と歩道とは、農家が植えたドウダンの垣根で仕切られている。なかなか良い風景だ。
そのドウダンの垣根を、別の植物の葉っぱとツルがおおっている部分があった。
近づいてみると、それはカボチャであった。

畑で栽培しているカボチャが、ツルをのばしてドウダンをおおい、歩道まではみ出さんばかり。
畑の中には、すでに食べごろの大きさのカボチャがいくつもなっている。
それでもなおツルをのばして成長しつづけようとしている。
カボチャの生命力とはすごいものだ。
カボチャは栄養価が高く、食べ方もいろいろあり、値段も安くありがたい野菜だ。
値段が安いのは、栽培のしやすさと、この生命力のおかげなのだなあと、私は感動さえ覚えた。



ところが、この「カボチャ」の生命力が、教育の世界で問題になっているという。
どういうことか???

昨年から教科化された道徳、その小学校1年生の教科書に「カボチャのつる」という童話が載っている。(すべての教科書会社の道徳の教科書に載っているという。)
わがままなカボチャが、ミツバチ、子犬、スイカの忠告を聞かずに、畑の決められた所からはみ出して道路にまでツルをのばし、道路を通ったトラックにツルを切られて泣くという話である。
これが、道徳の学習指導要領の「節度、節制」という項目に位置づけられているのである。

要するに、周りのものの言うことをよく聞く、ルールを守って生活することが大事であるということを教えるべしということだ。
これに対して教育者や保護者から批判の声が上がっているという。
多くは、「子どもの個性を認めない」「一つの結論を押しつけようとしている」というもの。
「勝手に行動していると痛い目にあうぞ」というおどしだという意見もある。
それぞれもっともな意見である。

しかし、私が最も問題にしたいと思うのは、なぜ主人公が「カボチャ」なのかということである。
そしてわがままな行動というのが、なぜ「ツルをのばす」ことなのかということである。

上にも書いたが、カボチャは生育が早く、旺盛に育つ野菜なのである。
ツルをどんどんのばすのは、カボチャの本来の性質なのである。
そして、のばしたツルのそこここたくさんの実をつけてくれる。
子どもたちには、むしろカボチャに感謝や愛着の気持ちを持ってほしいと思うくらいで、ツルののばし方に文句をつけるなどもってのほかだ。

栽培方法がやさしく育ちやすいので初心者にお奨めと、ネットの野菜栽培講座には書いてある。
カボチャの性質を心得て、ツルがのびる範囲を予測して、畑のどこにどう種をまくか、どう肥料をやるかは、人間が考えるのである。
ツルの伸び具合や、実のつけ方は日照や雨の具合にもよる。
それを見計らって世話をするのは、人間の責任なのである。

道徳というのは、社会生活の中での行動のあり方の問題だ。
行動のしかたにつながらなければ何の意味もない。
「勝手な行動をしない」と言っても、何が勝手で、何が勝手でないのか、判断はそう簡単なことではない。自由な行動、主体的な行動とどう区別するのか。、自分が遭遇する場面において具体的な行動として表現することは大人でも難しいことだ。

この「カボチャのつる」における行動者は、人間でないカボチャである。
そもそも野菜であるカボチャのつるののばし方が、行動のモデルとして適切なのか。
この伝でいくと、朝顔の花が咲かなかったのは、世話をする自分が水やりをしなかったせいでも、陽のあたらないところに置いておいたせいでもなく、朝顔が怠けて寝坊をしたからだなんて話にもなりかねない。

抽象的なお話の世界のことを、自分の身の回りの行動に置き換えて考えるということはなかなかむずかしいし、ましてや具体的な行動として表現することは簡単ではない。
高齢者や身体の不自由な人に座席をゆずるというような当たり前のようなことでさえ、多くの人がなかなか行動できないでいるくらいだ。
子どもたちには、具体的な行動のしかたとして表現していかれるように、少しずつ具体的な行動の場で行動させていくことが必要である。そうした積み重ねで行動習慣として身について初めて道徳として成立するのである。

子どもたちの行動の場は、教室であり、校庭であり、通学路であり、それぞれの家庭である。
また、家の近所であり、外出した先である。
道徳的行動力は、そうしたさまざまな場における具体的な行動を通じて育てていくものである。
教室の中で、教科書を読んで、話合うだけで、道徳的態度・道徳的行動力を育てようと考えているのなら、それは人間の行動形成についての勉強が不足していると言わざるを得ない。