2008/02/29

20 「口中調味」ができますか?

 口中調味とは、おかずとごはんを交互に食べ、味を混ぜ合わせて食べるということである。口中調味は日本人独特の食べ方で、欧米人にはなかなかできず、例えばカツ丼を食べるという場合、カツだけ先に食べてしまいその後で残ったご飯を食べるという例が多いという。一緒に食べると味がよくわからないという人もいるそうだ。欧米人は、その食生活のなかで主食とおかずを別々に食べてきたために、混ぜて味わうという行動回路が脳の中にできていないからである。

 「行動したことが、行動できるようになる」のであって、「行動しないことは行動できない」ということである。行動というのは、必ずしも身体を動かすということではない。脳への刺激となる人間の活動すべてを意味する。同じ文章でも、「聞く」、「目で読む」、「声に出して読む」、「紙に書く」では脳へ刺激、神経回路への電気信号の流れ方は違うのである。さらに、その文字で書かれたことを、実際に身体を使って行動するのとでは全く違う。つまり、口中調味の仕方についての話を聞いただけで、実際にそのこと(口中調味)が出来るということはないということである。

 日本でも、最近口中調味ができない子どもがふえてきたという。「ばっかり食べ」といって、おかずならおかずばかり食べ続け、つぎは味噌汁だけをのみ、ご飯はご飯だけで食べるという食べ方をする。これは日本の家庭における食のあり方が変わってきたことを物語っている。子どもたちが口中調味と言う食べ方を経験する環境がなくなってきたと言うことである。口中調味をしなければ、口中調味を成立させるための記憶も成立しないからである。

 昔は三世代同居で「箸の上げ下ろしにもうるさい」祖父母や親がいて、そうした中で口中調味をする能力が育ってきた。そういう環境が失われてきたということである。家庭に口中調味が重視する人(世代)がいない、もしくは口中調味が重視する人とともに食事ができないという環境にあり、食べ方を指導されることが少なくなっているということを示している。事実、現代では、弧食・個食が社会問題になっている状態である。社会の変化は、行動能力の変化をもたらすということである。

19 学習時間と学習効果

 学習者のペースで考えさせたり、調べさせたり、実験させたりすると、時間がかかるという指導者がいる。だから講義方式にするのだという。そうすれば、予定の時間で学習を終わらせられるというわけである。たしかに、話で終わらせれば、教師の思ったとおりの時間で終わらせることができる。しかし、その時間に学習者がどれだけ自分の脳を働かせたかを、考えてみなければならない。

 話を聞いているときには「わかった」と思っても、後になって自分で考えようと思っても考えられない、ということがよくある。それは、わかったと思っただけで、本当にはわかっていなかったのである。
 本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じ、また考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に頭脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。話し手と同様に頭脳を働かせることができるためには、聞き手が話し手と同じか同じ程度の経験や論理力思考力が必要である。

 「教えれば(説明すれば、あるいはやって見せれば)できる」と考えているとすれば、それは間違いである。脳は、行動したことを記憶するのである。教えるというのは、教える側の行動である。教える人が、自分の経験を材料にして、自分の論理で話を展開する。教えているものの脳は、活発に活動している。自分の経験を整理し、追体験していることになりその行動を成立させるための神経回路(以下、行動回路)に電気信号が行き交う。その結果、その行動回路はさらに確実なものになる。
 それに対して、話を聞いているだけ、見ているだけで、自分のペースで考えず、やってみることもしない学習者の脳には、たいした刺激がいかないので、期待するような行動回路はできていかない。
 話を聞いてそれで行動ができるようになったという人がいるかもしれないが、その場合はもう既にそのことを成立させる要素となる行動回路ができており、それを関連づける視点が与えられたのでできるようになったということなのである。

(参照:13 試行錯誤の脳行動学的意味)

 話の内容や論理を理解するのに必要な経験や、論理を把握する力のない聞き手には、いくら聞いていてもよくわからない。わからないからおもしろくない、だから聞かない、というようなことになる。そういうことでは、いくら予定の時間に学習が終わったといっても、その時間は学習者にとっては無駄であったということになる。
 時間が少ないからこそ、形だけでなく、学習者の脳を思い切り働かせて、本質的な能力と行動姿勢を育てることを考えなければならない。