2007/12/10

16 「わかったか?」と聞くときの心構え 

 我々は「わかる」とか「わからない」という言葉をよく使うが、本当は、「わかったと思う」「わからないと思う」といった方が正しいだろう。

 「わかる」「わからない」という言葉は、説明されたり教えられたりしたときの、その内容に対する理解の状態の自覚的表現だからである。教えられた内容を、すでに自分の脳―神経系の中にもっている言葉であったり、行動感覚であったりするものを手がかりとしてとらえた、その人の自覚の状態を表現したものなのである。
 したがって、「わかったか?」と聞いた側の内容と、「わかった」と答えた側の内容とは、かならずしも一致してはいない。いや、むしろ一致していない方が多いのではないか。説明したり教えたりする側がイメージしている内容や身体感覚と、説明される側、教えられる側が持っているイメージや身体感覚は同じではない。それらは、経験が作り出すものだからである。経験が違えば、作られるイメージや身体感覚も当然異なってくる。

 言葉もまた同じである。「高い山」とか「冬は寒い」といった簡単な言葉でさえ、平原に住んでいる者と山岳地帯に住んでいる者、温かい地域の者と寒い地域の者では、同じ意味を持たない。言葉は、経験と並行して、あるいは経験を整理する中で使われてくるからである。したがって、もっと複雑な内容の事柄、経験を土台にしての理解が必要な事柄を理解するのは、実に大変なことである。
 言葉や図で説明されたことを、それを説明した者がイメージしているのと同じ内容や身体感覚を持つことができるには、説明した者と殆ど同等かそれ以上の行動経験をし、言葉での表現についても同等かそれ以上の経験をしてきているということが必要である。その経験を手がかりとして始めて、推測できるのである。
 
 つまり、説明をして「わかったか?」と聞くときには、相手の経験を見つつ、聞かなければならない。説明の内容についての経験が殆どない場合の「わかったか?」と聞くのは、殆ど意味をなさない。「何についてどうわかったと思っているのか」を確かめる、という姿勢で対応する心構えが必要だ。

15 「わかる」ということ

 人の話を聞いて「わかった」というのは、「わかったと思った」というだけのことが多い。

 話がわかるというのは、話で使われている言葉がわかるということではない。もちろん言葉の意味がわからなければ、話はわからないのであるが、話の内容が本当にわかるということのためには、もっと多くのものを必要とする。 話の内容というのは、世の中の事実であったり、自然の事実であったりする。また、話をしている人の経験であったりする。話をする人は、その事実を見たり経験したりしたことから感じたこと考えたことを、自分の論理でまた自分の言葉で語っている。話を聞くというのは、その結果を受け取っているということである。

 話が本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じまた考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。聞き手が話し手と同様に感じたり考えたりすることができるには、話し手と同等もしくはそれに近い行動経験や論理を組み立てた経験がなければならない。なぜならば、感じることや論理を組み立てることは、そうしたことを経験することによって,脳の行動回路に蓄積されていく能力だからである。

 したがって、教師が、自分より経験が少なく論理力思考力が未熟な生徒や学生に、感じたり考えたりする材料や経験する場をつくらず、学習させる内容を講義による説明だけで済ませるということは、行動形成の意味からはほとんど意味がない。