2007/05/16

7 20%の授業

■50年前の授業調査

 昭和25年、国立教育研究所が全国小中学校教育課程調査の一環として授業研究を行った。1時間の授業における教師の活動、生徒の活動を克明に観察し記録をとった。教師がどういう教材を提示し、どういう説明をし、黒板には何を書き、どういう質問をしたか。どういう行動を指示したか。生徒は誰々が手を上げて、そのうち何人がどんなことを言ったか。その答えを教師はどういうふうに整理をしたか。また、教師の指示に対して生徒はどういう行動をとり、教師はそれに対してどう指導したか。そのプロセスをずっと分析していって、学習目標の立てかたや授業の展開のしかた等における問題点を明らかにしていく、という研究をしたのである。

 そうしたことを3~4年続けて、その中でわかってきたことがあった。全国のどの地域の、どのクラスにおいても、50数人の中で観察記録の表に出てくるのは、いつも10人程、つまり20%の生徒に過ぎないということだった。その10人の生徒は先生といろいろコミュニケーションをして反応がわかるが、あとの40人はわからない。
 そこで、今度は残る40人が授業中どうしていたかを聞き取り調査をしたところ、「わかりきったことだから手を上げなかった」という生徒もいないわけではなかったが、そういうのはそう沢山はいない。「先生、何言ってんのかな」と思っているうちにA君が答えてしまった。どういうことだろうと考えているうちに、Bさんが何か言った。「それでいいのかな」と迷っているうちに次へ進んでしまった、というような生徒が相当いる。また、先生が言ったことがわからなくて考えているうちに、そのことが展開してさらに難しくなった。質問したいと思っていたが、そのタイミングを迷っているうちに先生の話はさらに次へ進んでしまったという生徒も少なくない。あれよあれよという間に45分間がすぎてしまった、そういう状態だったというのだ。

 つまり、残りの40人、80%の生徒たちには、学習は成立していなかった。授業の45分間は、生徒たちの脳を働かせるための場になっていなかったということである。それから50年経った今、そうした状況はどれほど解決されているのだろうか。

■最近の授業状況

 最近、小,中,高の18人の教師による計23授業を見る機会があった。公立が大半であるが、若干私立も含まれている。科目はいずれも理科。いずれも積極的に取り組んでいるという教師たちの授業である。昨今問題になっている子どもたちの理科離れ・理科嫌い解決の道を探るという意味からも、深い関心を持って授業を観察した。
 1クラスの人数は22~39人、50年前の4割~6割とかなり少なくなっている。設備や教材も50年前とは大きく変わった。どの教室でもTVモニタや投影画像の見られるスクリーン、コンピュータが設置されており、TV放送、コンピュータを活用したデジタル教材、インターネットが活用できるようになっていた。そうした環境の中で展開された授業はどうであったか。

 23授業のうちの4つの個別授業、5つの実験を中心とした授業を別として、14が一斉授業であった。授業展開の仕方は一斉授業の場合、どれも基本的には50年前と変わっていない。一言で言うなら教師主体の授業。教師が教科書や資料の内容を解説し、生徒がそれを聞く。教師がときどき生徒に質問し、理解度を確かめる。内容の区切り区切りで、何かわからないことはないかと生徒から質問を求める、といったふうである。そのうちの6授業は生徒個々になんらかのワークをさせたが、残りの7つの授業はなかった。ワークを行った6つの授業のうち、そのワークの結果を基にして展開されたものは3つであって、あとの3つは授業展開の途中で練習問題的にごく短時間行われたにすぎなかった。また、個々のワークの内容は、展開のための材料とされることが多く、生徒の疑問について個別に指導がなされたのは1授業にすぎなかった。
 教師と生徒のコミュニケーションが活発に行われていた授業もあったが、よく調べてみると発言したり質問したりしている生徒の数が多いわけではない。同じ生徒が何回も発言していたり、教師が同じ生徒(確実に反応が返ってくる生徒)を何度も指名したりしているという例が多かった。整理すると、それぞれの授業で反応(内容に即したものに限定)した子どもは、各クラス2~6,7人。割合にすると10~20%。これを見た限りでは、50年後の今日でも、生徒ひとりひとり個別に学習が成立していると言うにはほど遠い状況である。( 私が親として12年の間に授業参観してきた40余の授業でも、この状況はほとんど同じようなものだった。)

■脳を働かせる授業へ

 反応数の少なさ以外にも問題があった。一斉授業における生徒たちの主たる学習行動は、教師の話を聞くという受身の行動であるということだ。受身の行動というのは、脳を積極的に働かせない状況を作る。人間の脳は、働かせなくてもよい状態にしておくとすぐ休んでしまう。授業中の居眠りというのはそのひとつの形である。今回観察した中でも、内容が難しくなってきた中学校以上の授業では、何人もの居眠りをしている生徒が見られた。いずれも一斉授業のクラスで、最高は39人中11人であった。
 また、教えられた結果を覚えるという行動では、脳を積極的に働かせないばかりか、21世紀を生きる人間としての必要な能力を身につけられない。自分の未来を切り開かなければならない21世紀の人間としての能力は、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案し、実行できる、そうした力でなければならない。教師の話を聞くというのが中心の授業では、そうした力は育てられない。脳の学習メカニズムは、経験したことを学習するというものだからである。つまり、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案する、そして実施して修正する、そうした過程を脳に経験させるように授業を設計しなおす必要があるということである。

 「結果を教える教育」から「自分の頭で考える学習」に切り替えて、学力のみならず国際競争力も世界のトップに押し上げたフィンランドの学校教育改革が、そのことを証明しているのではないか。

2007/05/11

6 失敗から学ぶ力を育てる

●なぜチャレンジ精神や創造性が育たないのか
 日本人は、決められたことをきちんとやるのは得意だが、新しいものを創造するのは苦手だといわれる。また、堅実だがチャレンジ精神に乏しいとも言われる。創造する力とチャレンジ精神、転換期にある日本の社会の中で求められているこの二つの能力、日本ではなぜ育ちにくいのか。
 創造する力やチャレンジ精神を持っている人間とそうでない人間とが、生まれながらに決まっているわけではない。創造する力も、チャレンジ精神も、どちらも脳の回路のなせるわざである。赤ん坊から子ども、子どもから大人へと成長する中で、脳を働かせ行動する、その過程で育ってくるものなのである。それが育っていないということは、創造する力を育てるための、そしてチャレンジ精神を育てるための脳の働かせ方が不足しているということ、脳を働かせる環境を作ってきていないということになる。

●失敗は、チャレンジ精神や創造力を生み出すみなもと
 ノーベル化学賞をとった白川秀樹さん、田中耕一さん、賞の対象となった研究のきっかけになったのは、共に研究の失敗からだった。まさに「失敗は成功の母」だったのであるが、白川さんはそのことについて、「ノーベル賞をいただく研究のきっかけになった失敗実験を、よく観察していなかったならば、単なる失敗として葬り去られただろう」と語っている。失敗を再挑戦のスタートと感じ取る心、失敗を観察し分析し、そこから新たなものを生み出す力を育てること、それが重要だということである。
 新しい試みに失敗はつきものである。しかし、失敗は挫折ではない。その失敗の中には、さまざまなデータが満ち溢れている。失敗を失敗のままに終わらせず、それを観察し分析し、つぎへの試みの手がかりを得る。そうした失敗から学び取る力、失敗を材料とし新たな工夫をする力を持つことが、挑戦するエネルギーを生み、その積み重ねが創造力になっていくと言えるだろう。

●「失敗させない教育」が育ててしまったもの
 「失敗は成功の母」という格言は、中国では「失敗是成功之母」、英語では「Failure teaches success」という言い方になっているが、失敗が やがて成功につながるという考え方は多くの国に共通する考えだと言えよう。
 しかし、この格言をどれだけの日本人が実感として受け止めているだろうか。むしろ多くの日本人が失敗から得たものは、挫折感、劣等感だろう。失敗することを恐れ、その失敗に対する他からの評価を恐れる。そのため、新しい試みに挑戦できない、難しいことに挑戦できない、人と違うことができない。そこには、日本の教育のあり方が大いに影響しているように思われる。 
 日本の教育は基本的に「失敗をさせない教育」である。正しい知識や、技術を教える教育である。正しい(その時点での)考え方、やり方を教えてそのとおりやらせる。その結果を試験や実技テストで確認し、評価するというものである。多くの場合、そこで終わる。教えられたとおりの結果が出せなかった、つまり失敗した後は、すべて生徒の責任となる。学習の場において、なぜ失敗したのか、自分の考え方や行動のしかたのどこに問題があったのかを分析し再挑戦する、といったことはまずない。
 そうした教育からは、「失敗=悪い評価」という考え方が育ってしまう。 だから、失敗を招くようなことはできるだけ避ける。結果がわからないようなことには、チャレンジしない。余計な疑問は持たず、横道にそれたり、自分で試行錯誤したりせず、ひたすら教えられたとおりのことを覚え、間違わずにやることに専念する。そして、それが脳の習慣的な働き方になっていく。

●必要なのは、「失敗から学ぶ過程」を経験させること
 「失敗から学ぶ力」、そしてそれを土台とした創造力やチャレンジ精神をどう育てるか。一般に多く行われているのは、白川さんや田中さんのような失敗から学び成功した人の体験談を聞かせるということである。そのことがいかに大切かを話し、「がんばれ」と励ますことである。 しかし、それで実現するのは、生徒に「がんばろうと思わせる」だけである。「思う」ということは「できる」ということとはちがう。失敗から学ぼうと思っただけでは、失敗から学べないのである。
 失敗から学ぶ力をつけるには、「失敗から学ぶ」という行動を成立させる脳の回路を作らなければならない。行動を成立させるための回路は、その 行動をすることによってできていく。その行動をするときに脳が働き、神経回路に信号が伝わることによって、その行動を成立させるための神経回路のネットワークができていく。行動が繰り返されるほど信号の行き来がスムーズになり、しっかりとしたネットワークとして成立する。
 つまり必要なのは、失敗を観察・分析し、失敗を修正することを経験させるいうことである。失敗の原因を探究し、問題点を修正し、少しずつ目標に近づいていく過程の面白さ、そして成功の喜びを経験させる。そして、失敗は自分を成長させる糧になることを実感させる。その実感が、失敗から学ぶ姿勢をつくりチャレンジ精神を育てるのであり、観察・分析・修正の積み重ねが創造力を育てていくのである。

●育てるべきものは何か
 教育ではすべてのことは教えられない。これから先のことは教えられない。であるなら、未知のものにチャレンジし、失敗から学ぶ姿勢と力を持った探究型の脳、柔軟で意欲的な脳を育てることを目標としなければならない。
 最近、日本では学力低下が問題になり、知識重視の方向が出てきているが、本当の意味の学力とは何であるかは、結果としての知識ではなく、脳の働き方を土台にして考えるべきではないか。

2007/05/02

5 指示と指導−いかに相手の脳を働かせるか その2

つぎに示すのは、先輩(A)が後輩(B)を指導している2つの例である。
1年後にどちらの後輩が成長しているかは、言うまでもないことだろう。

【事例1】

A この記事だけどなあ。
B ハイ。

A (写真を示し)これだよ。こんなのしかなかったのか?
B なかなか、いいのがなくて・・・

A 迫力ないんだよな。もっと動きがあるものあったろう。
B (首をかしげる)

A 持って来いよ。写真のファイルだよ。
B ハイ!

A (Bが持ってきたファイルを探して)
  これだな。大きく焼いてこの部分だけ使え。
B ハイ!

A それから、ここな。表現がまずいんだよ。
  言いたいことがぼやけてるぞ。書き直しといたからな。
B ハイ。

A あとはまあいいだろう。写真できたら、すぐ印刷にまわせよ。
B ハイ。


【事例2】
A なかなかいい出来だよ。
B 本当ですか?

A 100点満点とは行かないけどな。
  2ヵ所ばかり気になるところがあるんだ。
B ハイ、どこですか?

A まず、この写真だ。もっと動きがほしいと思わないか?
B ハイ、そう思ったんですが、なかなかいいのが無くて。

A 1枚をそのまま使わなくてもいいんだぞ。
  いい部分を拡大して使うとか、2枚組み合わせてもいいんだ。
  それでも無いか?
B 写真持ってきます。
  これどうですか? ここを拡大するというのでは・・・

A うん、いいじゃないか。じゃあ、これはよし、と。
B ハイ!

A もうひとつは、ここの表現だ。少し印象が弱いな。
  結論を先に持ってきて、言葉も少し強い調子にする。
  時間がないから、順番を入れ替える程度でやってくれ。
  制限時間10分だ。
B ハイ!
  (10分後)これでどうでしょうか。

A よーし、まあいいだろう。これで決まりだ。
  写真拡大したら、すぐ印刷の方に回してくれ。
B ハイ!

A お前、いいセンスしてるぞ。つぎも頑張れよ。
B ハイ!

4 指示と指導−いかに相手の脳を働かせるか その1

 +1ずつでも毎日たしていけば、1年たつと+365になる。しかし、0ならば、1年たっても0のままである。逆に−1ならば、1年後には−365になり、+1ずつの場合とは730もの差がついてしまう。

 多くの人は人生の中で、それぞれ何らかの形で指導的立場にたつ。先輩として後輩に、上司として部下に、親として子に、そして教師として学習者に、行動のしかた,仕事のしかた,勉強のしかたをいろいろと指導する。相手に対して毎日毎日積み重ねていくその指導は、果たして相手を成長させる+1の指導になっているだろうか。
 相手を成長させる「+1」の指導となるか、単なる「指示」にとどまるか、逆に「成長の妨げ」となるか、そのポイントは、相手に対する働きかけが、いかに相手の脳を働かせるような行動になっているかというところにある。それは、私たちの脳の学習のしかたが「行動したことを学習する」 ということだからである。

 私たちの脳は、行動したときに働いた脳の働き方(神経回路への信号の伝わり方)を、行動のしかたの記憶として蓄積していくようになっている。 計算する能力は、計算行動をすることによって身につくのであり、計算式とその結果をただ覚えただけでは、計算はできるようにはならない。教師がやり方のモデルを示し、それにならって計算し、その結果を正しいものと比較し、まちがっていれば自分の行動を修正する。私たちが今、さまざまな計算ができるというのは、そうしたことを積み重ねてきたからなのである。

 つまり、相手に育てるべき行動をできるようにしてやるには、その行動を成立させるための脳の働き方を経験させてやらなければならないということである。指導的立場にあるものには、こうした脳行動学に基づく視点を持つことが、大変重要な課題であるといえよう。育てるべき相手の成長を大きく左右することになるからである。

▼あなたは、あなたが育てるべき相手の脳を働かせているか。
▼育てるべき相手に、目標や理念ばかり語っていないか。
▼考えたり決断している行動したのは、あなただけになっていないか。
▼わかりにくい指示で相手を混乱させたり、批判と叱責ばかりでやる気を失わせていないか。
▼その行動を成立させるための脳の働かせ方を、ちゃんと経験させているだろうか。

3 ビールは23歳で好きになる

〜「嫌い」が好きになるメカニズム〜

 2006年夏、或るビール会社が、ビールを「うまい」と感じるようになった年齢は何歳か、という調査を実施した。23歳、それが調査に応じた1万数千人の平均の値である。
 ビールは苦味のある飲料である。晩酌の一杯を楽しむ夫と私に娘(21歳)や息子(18歳)は「こんな苦いもの、どこがおいしいの?」と聞く。まだ苦味を「うまい」と感じる味覚を持っていないのだ。人間は生まれてすぐの段階では、甘い味しかおいしいとは感じない。赤ん坊の口に塩味や辛味、苦味、酸味のあるものを入れると、舌で押し出してしまう。甘み以外の味をおいしいと感じる感覚は、すべて、生まれて以後の食生活の中で獲得していくのである。

 新しい味覚の獲得には、時間がかかる。生後3〜4ヶ月で始める離乳食、軟らかいものから硬いものにするばかりでなく、薄味からだんだんと濃い味にしながら、塩味,甘辛味,酸味など色々な味に慣れさせていく。そうして、幼児、子どもの過程を経て大人と同じものを食べられるようになるのには十数年かかる。我が家では下の子が中学生になるまで、大人用カレーと子ども用カレーの2種類を作っていた。薬味の生姜や山葵、辛子を大人と同じように食すようになったのは、中学卒業の頃だった。
 空腹の状態を作り、落ち着いた状況で無理をさせず、繰り返し根気よく慣らしていく。その積み重ねで、いろいろなものが食べられるようになっていく。しかし人参、ピ−マンのように独特の強い香りや味を持つものを嫌い、いつまでも食べられない子どももいる。

 好き、嫌いの感情をつかさどるのは「古い脳」に属する「扁桃体」。「古い脳」とは脳幹や延髄など、生命維持にかかわる働きをする脳の部分を言う。その「古い脳」に属する「扁桃体」は自分の生命にとって安全なもの、心地よいものを好きと感じる働きを持っている。甘い味をおいしいと感じるのは、生命維持のためにDNAに組み込れたもので、赤ん坊が生きるために摂取する母乳、その甘さは安全なもの、自分の生命を守るものであることを、感覚としてとらえられるようになっているのである。
 扁桃体は、短期記憶を必要なものとそうでないものに振り分ける海馬のすぐ隣にある。扁桃体と海馬との間には情報のやり取りがあって、好き嫌いの情報は経験の記憶と結びついて変化していく。楽しさ心地よさ(=安全)とともに経験したものは好きになり、逆にいやな経験と結びつくと嫌いになっていく。

 このメカニズムをうまく使って、児童の野菜嫌いをなくした小学校がある。 人参やピーマンが嫌いな子が多いことを心配した栄養士さんが「宝物探し給食」というものを考えたのである。星型や動物型に切った野菜を各組数人に当たるように準備し、それを入れておかずをつくる。そして、宝物は誰のおかずに入っているかな、とやったのである。すると、子どもたちはその宝物を探すのが楽しくて一所懸命探す。見つかるとみんなの羨望のまなざしの中でその宝物を食べる。その結果、見事好き嫌いはなくなってしまったというのである。

 さてでは、ビールはなぜ23歳で好きになるのか。23歳というのは、学校を卒業して仕事につき少したった頃、仕事の厳しさや、難しさあるいは面白さを感じてきている、そんな頃だろう。前述の調査によれば、それまで「苦い」と感じていたビールを「うまい」と思ったその時の状況は、
   男性は仕事の打ち上げ,風呂上り  女性は仕事帰り,飲み会
 共通するのは、暑い日、よく冷えたビール、友人、仲間である。身体の水分要求に、仕事が終わったときの充実感・開放感と良い仲間が加わったとき、「苦い」が「うまい」に変わったのだ。 楽しい経験と結びつくことで、それまで嫌いであったものも食べられるようになる、好きになる。脳は、安全であること、快であること、そうした情報とともに入った味は良い情報として記憶するということである。このメカ二ズムを、うまく使うと食べ物ばかりでなく苦手なものを克服できる、いや、苦手をつくらないようにすることができる。その方法へのヒントがここにある。